第九話 サイン会
潤子は笑顔を貼り付けたまま、一歩後ずさる。丁度、屋台の前で行列を作っていた客を解散させた妹が、彼女の元へと走り寄ってきた。
「夏子。助かった……」
夏子は何も言わずに、ただ突き出した手の親指を上に向け、その白い歯を見せた。おもむろに周りを取り囲む男性達に向かい、両手を口に添えて高らかに声を上げる。
「すみません。これからサイン会を開催しますので、どうか一列に並んでください。サイン希望の方はこちらのドリンクを五百円でお買い上げ頂くと、もれなくサイン権が付いてきます」
そう言うと、妹は家族で飲む用に用意してあったクーラーバッグを奥から引っ張りだす。屋台の端を片付け、雑巾でさっと拭いた後に、休憩用の椅子をその前に置いた。全く無駄のない動きだ。
「ちょっ、夏子……」
おもむろに夏子がニコリと笑った。嫌な予感しかしない。
「さあ、お姉様。どうかここにお座りして、ファンのみなさまのご期待にお応えになって。お姉様にしか成し得ないことだわ。お母様、定食屋からありったけのドリンクを持ってきてくださいな」
口調がおかしくなっている。そして妹の意図を悟った母さんはただ頷くと、橋の入り口に構えた定食屋へと走っていった。
夏子は満足げな表情で頷くと、もう一度、声を張り上げる。
「撮影は固く禁止します! 握手もご遠慮ください。もし、発覚した場合はその場でサイン会を中止します!」
さすが夏子だ。私のことをよく分かっている。さすが……なのか?
潤子はひたすら自分の名前を書き続けた。こんなに自分の名前を書いたのは小学生の時の漢字ドリル以来だ。書いては渡し、書いては渡し……。
突如、大学ノートが差し出された。
「橋守、お前何やってるんだよ」
顔を上げると、そこに立っていたのは尾崎だった。
「何って名前書いて渡してるの。何でこんな状況になったのかはよく分からない」
「あ、サインはノートの表に書いて」
彼の片手にはドリンクが握られていた。五百円を払ったということか。ノートの表紙に丁寧に『橋守潤子』と書くと、彼に渡した。
「これどうするの?」
「そうだな。家宝にでもするか」
「バカじゃない?」
「そうかもな。俺、お前と違って万年二位だし。じゃあ」
尾崎はニヤリと笑うと、受け取ったノートを片手でヒラヒラとさせながら去っていった。冗談で言ったつもりだったのに。少しだけ罪悪感を抱いてしまった。
結局、ドリンクも全て捌き切った。また夏子が涙目を作ってペコペコとお辞儀をしだす。潤子は右手をグーパーグーパーしてぐるぐると肩を回した。
「はい。お姉ちゃん。ギャラだよ」
夏子が一万円札を三枚渡してくる。即席とは言え、妹に雇われる日がくるとは。
「お母さんに四万円、私とお姉ちゃんが三万円ずつ」
なんかモヤモヤした気もしたが、姉の威厳を保つために黙ることにした。
「潤子、お疲れ様。今日はもうゆっくりしなさい。片付けは夏子とやるから」
「分かった。そうさせてもらう」
潤子が出店を楽しみながら橋を歩いていると、可奈と智子が浴衣姿で仲良く歩いてくる。
「よう潤! あれ。終わり?」
「さっき終わった。残業付きで」
「なら、潤子ちゃん。出店を見て回りましょうよ」
「可奈、ごめん。少し休ませて。二人は先に見てきたら?」
二人は顔を見合わせた。
「潤を待ってるよ。その方が楽しいだろ?」
「なら、橋に来る?」
「「うん!」」
潤子は帰路の道のりで、今日の出来事をかいつまんで二人に話した。智子が口を開く。
「祭りアイドル認定されたな」
「祭りアイドル? 何それ」
智子の話によると、祭りの中で推しだと思える人物をアイドルに見立てるらしい。祭りアイドルサイトなるものもあり、いいねによる人気投票も行われているとのこと。そこで票を集め、実際にアイドルデビューを果たした人が何人もいるとか。
「あ、潤子ちゃんがランクインしてます!」
スマホをいじっていた可奈が、驚いたような声を上げた。
「嘘っ!?」
潤子の声は裏返っていた。慌てて智子と一緒に、可奈のスマホを覗き込む。スマイル顔の潤子がハゼの唐揚げを客に渡している写真がアップされていた。
「隠し撮りかよ。えげつねえ」
智子が苦々しい顔を見せる。
「いいねのカウントがとんでもないことになってますね。もうすぐ神ランク行きそうです。あ、今全国10位になりました。神ランク入りです」
「なあ、潤。これって明日はもっとヤバいことになるんじゃないか?」
「そうですね。文字通りの祭りですよ。あ、橋祭りとは別の祭りっていう意味です」
可奈のその話し方に、得も知れぬ不安に襲われた。二人が心配そうな顔を見せる。
「えっ。どういうこと?」
「ほらここ。祭りの場所書いてあるじゃん。しかも絶賛開催中だろ」
潤子の顔がみるみる青くなった。
「母さんのお店、大丈夫かな。大丈夫なわけないか……ははは」
乾いた笑いしか出てこない。
「で、どうする? 一応、削除要請は出せるようにはなってる。本人確認書類の提出は必要になるけど。あと、写真掲載はいいけど、芸能スカウトはお断りとか色々と設定できるみたいよ。町興しのために写真掲載だけはオッケーにしてる子も多いみたい」
町興しか。ここ潮見市も人を呼びこむのに苦労していると聞いたことがある。
「一度、部屋に戻ってゆっくりと考えたい」
三人は橋の中へ入り、リビングの扉を開けた。おじいちゃんがホクホク顔で潤子たちを迎えいれた。心なしか顔がツヤツヤとなり、ハリも良くなっている。
「おおー。潤子さん、おつかれさん。お二人もいらっしゃい」
「「お邪魔しまーす」」
「ただいま。あれ、奉納品、もう全部食べちゃったの?」
「ああ。ありがたく頂いたぞい」
「お腹壊さないでね」
透明のゴミ袋には山となったプラスチック容器が突っ込まれている。二十店舗分の量だ。それも奉納品ということで何品もくれる店が殆どだ。
潤子は半ば呆れ顔をおじいちゃんに見せた後に、二人に視線を向けた。
「……そう言えば、可奈と智子って二人で来たの?」
「はい。両親とは最終日に行くことになってます」
「こっちも。彼、最終日に間に合わすって言ってた……けどな」
おじいちゃんはニコニコとしながら、智子へ話しかけた。
「智子さんや。短気は損気と言ってな。カリカリして帰ってしまっては勿体ないぞ。橋の入り口でどっしりと構えて花火を見てなさい」
そんなおじいちゃんの助言を聞いた智子は、気難しい表情を、どこか照れたような顔に変え、おじいちゃんにお辞儀をした。
「……うん。そうしてみるよ。ありがとう」




