第八話 夏の橋祭り
潤子はいつものように、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。階段を駆け上がり、キッチンへと続く扉を開く。
「お早う、母さん!」
「お早う。今日はよろしくね」
続いてリビングの中へと入っていく。
「みんなお早う!」
「「「お早う」」」
一人、起きてこないのがいた。
「あれ、隼人は?」
「お兄ちゃんならまだ寝てるよ。昨日はしゃぎ過ぎてたし」
背後から忍び寄る影。隼人だ。
「げっ。姉ちゃん」
いつぞやの仕返しに、潤子はわざといやらしい笑みを浮かべた。
「やーい。びりっけつ」
「うわっ。大人げねーな。こんなオトナに絶対になりたくない」
「お兄ちゃんが最初に変なことを言ったからでしょ! 自業自得よ」
相変わらず夏子はこっちの味方をしてくれる。思わず抱きしめた。
朝ごはんを食べ終えた潤子は風呂に入った。濃い青空に厚い雲がほんわかと流れている。日差しを浴びた瀬戸内海の島々がハッキリと見えた。
「しっかし、緊張するなー」
父さんは母さんに対し、嫉妬心が抑えられないから売り子を止めてくれとストレートに言い放った。母さんも父さんのしょげかえった姿に万更ではない様子で『なら潤子、売り子をやって』とお願いされた。
風呂を出て、脱衣場で扇風機の吹き出す風に当たる。火照った身体に心地よい。そのまま浴衣を纏った。白地に薄い青の朝顔の柄のものだ。しげしげとそれを見ていると母さんが入ってきた。
「とてもよく似合ってるわ」
そう言いながら群青に染めた帯を締めてくれた。
「髪も結ってあげる。座って」
潤子は鏡面台の前の丸椅子に座った。母さんも丸椅子を持ってきて、その隣に座る。
帯と同様の群青に染めた紐により、後ろ髪が品の良い、ゆるお団子スタイルに変化する。いつもは黒いヘアゴムで束ねるだけなので、どこか新鮮だった。
最後に、雪の結晶のような可憐な花の銀のかんざしがヘア団子に挿される。
「随分とおしゃれなかんざしだね」
潤子は鏡の前で、嬉しそうに顔を左右に振った。
「江戸時代のものよ。名工と呼ばれた初代橋守のご先祖様が、これで奥さんの心を射止めたらしいわ」
どの時代もやることはそう変わらないらしい。橋守家のルーツになったかんざしだと思うと感慨深いものがある。
「このかんざしって、我が家を作った歴史そのものだね」
「ご先祖様は、武家の娘と恋仲になったのよ。大恋愛の末、江戸からここまで駆け落ちして、奥さんの身を隠すために橋の中に住む所を作ったんだって」
いや、かなり情熱的だった。
「初代は橋にまつわる難工事をいくつもこなした褒美として、橋守っていう苗字を世襲で下賜されたんだけど。でも身分は職人のままだったから、お武家さまとの結婚だけは許されなかったっていう訳ね」
当時は苗字を付けられるのは武士だけだったか。それに身分差のある結婚も出来なかったんだっけ。
「もしかして汐待橋の由来も……その許されない恋愛から来てたりするの?」
「そう。引き潮の時間を待って、島に渡って、そこでデートしていたの。橋が完成するまで、島に建てた神社の境内に奥さんを匿っていたらしいわ」
神社の神様も二人のイチャイチャを見せられて大変だったのでは。
「橋の名前が、ご先祖様のデート由来だったとは」
「本当は山奥に作った橋を改造して、その中で暮らす予定だったみたい。奥さんが海の近くがいいって駄々をこねたから、今の汐待橋があるのよね」
惚れた弱みで二つの橋ができた。
「もしかして山奥にも兄弟橋があるってこと?」
山奥の橋が見つかったら、可奈が喜びそうだ。
「さあ、そっちはどうかしらね。保管庫にしまってあった古文書には詳細は書いてなかったから」
母さんが化粧箱を姿鏡の前に置いた。
「化粧もしようか。潤子って、素材はいいからナチュラルメイクでいいか」
初めての化粧だった。母さんがパフを持った手を、手際よく動かしていく。メイクが完成した。
「あのー。どちら様でしょうか」
潤子は思わず鏡の中の自分に問いかけてしまった。母さんが可笑しそうに笑う。
恥ずかしい気持ちを抱えながらリビングに戻る。おじいちゃんが真っ先に反応した。
「別嬪さんじゃな。若い頃のお紗夜さんを思いだすのう」
お紗夜って誰だ。そう思っていたら父さんが一言付け加えた。
「初代橋守の娘だよ」
よく知ってるなと思ったけど、父さんは歴史マニアだった。保管庫の古文書を読み漁っていたっけ。
母さんと一緒に橋の上に出た。出店の代表者全員を集めた簡単な朝礼がある。脱衣場では浮かれていたが、大勢の人の前に自分の姿を晒すのは本当に苦手だった。
可奈にも智子にも自分の姿を撮影してSNSにアップしようものなら、その場で絶縁と言い渡している……そうは言ったものの、実際に縁は切れないだろうが。
潤子は昔から自分を知っている馴染みから集中砲火を浴びた。
「あたしの若い頃にそっくりだねぇ。これでも村一番の美人さんだったんだよ」
「あのおてんばの潤子ちゃんが、まさかこんな綺麗なお姉さんになるとはねー」
「潤ちゃん。うちの孫の嫁にどうだ?」
売り子をやる前に既にヘトヘトな気分だ。その後、弟と妹と一緒に出店を回って本日の戦利品、ではなく奉納品を回収する。
「隼人、夏子。後はよろしくね」
潤子はそう言うと、橋守家の屋台へと向かう。九時から二十一時の長丁場だ。彼女は気合を入れた。
――開始から四時間後。
「ああ! 底をついた……」
母さんの悲痛な叫びが聞こえる。潤子もずっとスマイルを作りっぱなしで顔が引きつりそうだった。背後の二つの大きな桶に目をやる。桶の底に、半ば溶けかけた氷だけが所在なげに浮かんでいた。だが行列は無情にも遥か先にまで続いている。
なぜこんなことになったのか。どうやらどこかの有名なインフルエンサーが我が家のハゼの唐揚げを紹介したらしい。そう言えばサングラスをかけた若いお兄さんにサムズアップされた気がする。
「母さん、明日の分も使う?」
「いや、駄目よ。今日は戦略的撤退よ。夏子、お客さんに謝ってきて」
「はーい」
妹はその場で涙目を作り、しおらしくペコリペコリと頭を下げて回っている。
春の橋祭りの売り上げをベースに仕込みをしたが、その予想を嘲笑うかのように売り切れてしまった。夜が本番なのに。ネットの力、恐るべし。ただこれで今日のノルマを達成したかと思うと、どこかほっとした気持ちになる。
その刹那。ふいに知らない男の子から声をかけられた。
「あの……」
普段は使わない筋肉を総動員して、ニッコリスマイルを返す。
「何かな?」
「サイン下さい」
「えっと。何のサイン?」
知らない子の連帯保証人には絶対にならないぞ。まあ、彼は何かを契約できる年齢には見えないが。
「ここにサインして欲しいんです」
色紙とサインペンを渡された。もしかして、芸能人とかがするあのサインのことか?
「私、一般人だよ。誰かと勘違いした?」
「勘違いではないです。本当にお姉さんのサインが欲しいんです!」
潤子はよく分からないまま、ただ彼の気迫に押されて、丁寧に色紙にサインし、彼に返す。
「はい、どうぞ。でもこんなのどうするつもり?」
「橋守潤子さんっていうんですね。それに凄い綺麗な字……じゃなくて、僕の家宝にします!」
それを遠巻きに眺めていた殿方たちが、ぞろぞろと潤子の周りに集まってくる。
「あのー。僕も」
「よろしければ、私も……」
何が起きてるのか、潤子にはさっぱり分からなかった。




