第七話 橋祭りに向けて
潤子は学校を出て二人と別れると、橋に向かって駆け出した。既に橋の上では出店の準備が進められている。普段は車両の乗り入れが禁止されている橋の上流側に、何台かのキッチンカーが停まっていた。
橋の入り口に近い場所で、父さんと母さんが屋台を設営している。
「ただいま! 着替えたらすぐに手伝う」
「お帰り。先に協賛金の回収をお願いしてもいいかしら?」
「その後で、こっちの準備も任せられるか?」
「分かった」
潤子は頷きながら走り去っていく。橋桁に続く階段を駆け下り、廊下を抜け、リビングに辿り着く。
「おじいちゃん、ただいま。明日は楽しみにしてて」
「おう。お帰り、潤子さん。ようやく橋祭りか。楽しみじゃのう」
そう言いつつも、おじいちゃんは橋の外へは決して出ていかない。潤子が貰ってきた出店の食べ物を美味しそうに食べているだけだ。
キッチンへ行くと、すぐに冷蔵庫を開け、冷えた麦茶をコップに注ぐ。一気に煽った。麦の香ばしい味わいが喉を通る度、潤いで満たされる。
「あーっ。うまい!」
そのまま二杯目を飲み終えると、自室まで駆けて行き、そこでジャージに着替え、リビングに戻る。
「じゃあ、行ってくる」
「おう、頑張ってな」
領収書の入った封筒を手に持ち、『橋祭り実行委員』と書かれたストラップを首にかける。橋の上へと駆け戻った。
(このお祭りも、みんなにどう思われてるんだろう)
そんな考えがよぎった。慌てて頭を振る。
「こんにちはー。協賛金の徴収に来ましたー」
潤子が、普段は決して見せないスマイルを浮かべる。
「おう、橋守のお嬢ちゃんか。おつかれ」
キッチンカーから顔を出した中年男性が、二枚の一万円札を潤子に手渡す。
お札を確かめると、領収書を差し出した。
「確かに受け取りました。こちら領収書です」
「クレープは明日取りに来てくれ」
男性は受け取った領収書をひらひらとさせながら、にこやかに笑った。
出店料は三日で二万円。それとお店の売り物を奉納するしきたりになっている。なお奉納されたものは、おじいちゃんの胃袋への捧げ物になる。
「こんにちはー。協賛金の徴収です。あ、設営手伝いますよ」
「おや、潤ちゃんかい。助かるよ。明日の肉じゃがは弾むからね」
設営に手間取っていたおばあちゃんの代わりに、手際よく屋台を組み立てた。ここの肉じゃがは絶品だ。
昔は屋台一色だったのに。今は出店の半分以上がキッチンカーで占められ、屋台派は少数となってしまった。
「ねえ。山下のおばあちゃん」
「何かね?」
「おばあちゃんはお祭り、楽しんでる?」
「もちろんよ。本当に橋守さん家には感謝しとるわ。市内の惣菜屋じゃあ、わしと同じジジババしか買いに来んしの。ここだと若い子も来るからな」
気付けば胸を撫で下ろし、大きく息を吐いていた。
「そっか。良かった」
「わしは潤ちゃんとも会うのを楽しみにしてるんぞ。昔はあんなちっちゃくて、指を咥えて肉じゃがを見上げておったのに」
「もう。でも良かった」
おばあちゃんの言葉に、ほっとしたような、ほっこりとしたような気持ちが満ちた。
全ての出店者から協賛金を集めた潤子は、両親の元へと舞い戻った。既に屋台の骨組みは組み立てられており、母さんが屋根の布を結び付けている。
「はいこれ。集めてきたよ」
現金の入った封筒を母さんに渡す。
「ありがとう。キッチン作ってくれる?」
「はいよ。あれ、父さんは?」
「川に行ったわ。隼人と夏子と一緒に灯籠の準備をしてるんじゃないかしら」
夏の橋祭りは灯籠流しの風習を受け継いでいる。昔は本当に灯籠を流していたが、環境への影響があるということで、橋脚に取り付けたフックに灯籠を結び付けて、川に浮かべている。なお、灯籠も防水LEDだ。
キッチンを組み上げ、屋台は完成した。あとは明日に向けての仕込みだけだ。
「助かったわ。はいどうぞ」
母さんが、サイダーの瓶を差し出してくる。祭りの日は、これが楽しみだった。
「ねえ、母さん」
「うん?」
潤子はふと思ってることを口に出してしまった。
「仮にだよ。私が橋守を継ぎたくないって言ったら、母さんはどう思う?」
「そのときは、あなたのやりたい事を応援するわ」
即答だった。
「え? そうなんだ……」
そしてすぐに、母さんは優しげな顔を見せた。
「あなたは私の娘だもの。どんな道を選ぼうが幸せになって欲しいって思う気持ちに嘘はない。それにね、橋守は一族で継いでいくものなの。誰か一人に押しつけるものではないわ」
その言葉が、幼い頃から持っていた、どこか漠然としていて、それでいて呪縛めいていた思いを解きほぐしていく。初めて義理や義務ではなく、心から橋守を継ぎたいと思った。
「……ごめん。なんか変なことを聞いた」
サイダーの蓋を開け、瓶に口に付ける。その味は爽やかで、甘く優しい味がした。橋守を継ぐということが、どういうことなのかはまだ良く分からない。それでも、橋が受け継がれることで喜んでくれる人がいる。今はそれで良いような気もした。
ふいに潤子の頭を、母さんの温かい腕が包む。
「母さん……恥ずかしいよ」
そう言いつつも、サイダーを片手に持ったまま、母さんの胸に顔を埋める。
「知らない間に、随分と大きくなったのね」
「小さいままだと、困るのは母さんの方でしょ」
「そんなことないわ……あなたがここまで育ってくれて、嬉しい気持ちと、少しだけ寂しい気持ちがあるのよ」
そっと腕がほどかれる。潤子はなぜかそれを名残惜しく感じた。
「さて。今日は頑張って仕込みをしないとね」
「そっちも手伝うよ」
母さんにウィンクされた。
「調理は私の担当。今日は早めに上がりなさい。明日、すっごく可愛く髪を結ってあげるから」
春の橋祭りのときは、潤子が調理担当で、母さんが売り子をしていた。
『最初は絵で売って、味でリピーターを釣るのがいい』と、どこかの法則を応用したような夏子の案が採用された結果、浴衣姿で売り子をすることになる。
そして母さんは売り子スタイルとして、髪を艶やかに結い、浴衣姿に陣羽織を羽織った姿になった。
客の対応をしていた母さんに向けられた、行列を作る殿方からの熱い視線に嫉妬した父さんが、最終的に次の橋祭りでの担当替えを提案したのは内緒だ。
選手交代を告げられた時、少しだけ焦った。熱い視線が自身に注がれたらどうしようと。だけどすぐに思い直した。母さんより大きくないから大丈夫だろうと。どこがとは言わない。絶対に。
自室に戻って窓の外をなんとなく眺める。橋の下では父さんたちが船から灯籠を幾つも浮かべていた。時折隼人と夏子のはしゃぐ声が聞こえてくる。
「楽しんでるのは家族も一緒か」
潤子の頬が緩む。知らずのうちに笑っていたらしい。
橋祭りは金土日の週末、三日間開催される。最終日は市の花火大会があるため、灯籠を照らすのは最初の二日だけだ。
灯籠に明かりが点いた。薄暗い水面をボンヤリと照らす。潤子はその明かりと父さんたちを、何時までも愛おしそうに眺めていた。




