第四十話 告白
廊下を歩く尾崎の隣に潤子が並ぶ。すぐに彼は口を開いた。
「どうして? って顔してるな」
声のした方へと振り向く。その顔を見るなり、潤子は膨れっ面になった。
「当たり前だよ。なんで尾崎くんがここにいるの? 受験するなら、私に言ってくれても良かったんじゃない?」
……友達として。という言葉がどうしても喉元から出ていかなかった。彼に抱いている気持ちが、それ以上になってしまったから。
「合格したら改めて言うつもりだったんだ。橋守が混乱するかと思って。それに恥ずかしいだろ、落ちたら」
「尾崎くんなら、逆立してたって受かるよ」
「流石に逆立ちしてたら受からないと思うけどな」
おかしそうに笑う尾崎と、その笑顔に心臓が高鳴る自分がいる。
笑い終えた彼は、その背筋を伸ばすと急に真面目な顔になった。
「……俺さ。医者になるって決めたんだ」
潤子は訝しんだ。それなら、何故ここにいるのか。
「橋梁ドクターっていうらしいな。橋の医者のこと」
尾崎の放った『橋梁ドクター』という言葉が、脳裏にリフレインする。橋の医者って……それじゃあ。
「あ、これは俺が自分で決めたことだから。前に里逢橋の上で橋守と一緒にさ、これからのことを話をしたことあったよな? その後、テントの中で本当に医者になりたいのか、悩んで悩んで悩み抜いて決めた」
そう打ち明けた尾崎の顔はどこか嬉しそうだ。
「橋をメンテするのも面白いなって思ったんだ。ジオラマで橋を作ったことあるんだけど、本物の橋を触ったらもっと面白いんじゃないかって……それに」
「それに?」
「橋守と同じ大学に行けば、橋のこと色々と聞けるだろう? 理由としてはそれだけ」
「本当にそれだけ?」
「ああ。それだけ」
尾崎のその言葉に、何故かムスッときた。プイッと顔を反らし、わざとつっけんどんな態度を取る。
「そう。それじゃお友達として色々と教えてあげるよ。その代わり、大学入ったらお婿さんになってくれる彼氏を見つけるから、邪魔しないでね」
そう言って、一歩前へと進んだ。隣に彼がいないことに気付き、慌てて振り向いた。
視界に入ったのは、その場に立ち尽くし、目に見えて顔色が青くなった尾崎の姿。彼はオロオロとしながら、早口で捲し立てた。
「ごめん! 嘘ついた……俺、橋守の隣にいていいか? ずっとだぞ」
「……そこまでしといて、隣に尾崎くんがいない方が逆に不自然だよ」
潤子は涙をうっすらと浮かべながら、太陽を見上げる向日葵のような笑みを向けた。
「じゃあ、明日の面接も頑張ろうか。受験一抜け目指して」
「それなんだけどさ……今回受からないと、もう後がないんだ。医学部を受けさせられることになってる」
「えっ、どういうこと?」
「親父に話したら、それなら一発で受かってこいって言われて。落ちたら次はないぞって」
今度は潤子の顔が青くなった。おもむろに尾崎の手を取る。
「それなら、行くよ!」
「おい、行くってどこへ……」
「神社。合格祈願しないと!」
取った彼の手を、思いっきり引っ張った。
「おわっ!」
「きゃっ!」
体勢を前のめりに崩した尾崎。彼を抱えるように受け止めた。勢いを殺し切れずに、後ろへと下がる。ふいにドンッ、という音と共に潤子の背中が壁際に押しつけられた。
「……」
「……」
目の前に尾崎の顔が迫る。ほっそりとした、整った顔立ち。その頰は仄かに赤く染まっている。優しげな二重の切れ長の目が、彼女を覗き込んでいる。彼の薄い唇が開いた。行儀良く並んだ白い歯が見える。ふいに彼の顔が遠ざかっていく。
「大丈夫か? ほら」
俯きながら差し出してくる手を握った。優しく引っ張られる。背中が壁からふわっと離れていく。
「大丈夫じゃないよ……自分のせいだけどさ」
頬が熱い。心臓も早鐘のように煩い。
大学を出た二人はバスに乗って、海岸沿いへと向かっていた。やがて窓から夕日に照らされた海が見えてくる。そこには、いくつもの島が黒い影をみせながら浮かんでいた。
バス停を下りると、すぐ目の前に堤防が見えた。振り返ると、尾崎がポケットに手を突っ込みながら自販機のボタンを押している。
潤子は堤防の階段を駆け上った。眼下には淡い黄金色に輝く砂浜が広がっている。彼女は両腕を空に高く突き出しながら、大きく背伸びをした。
「ここに来るのも久しぶり」
全身を撫でる潮風が心地よかった。靡く風が彼女のポニーテールを揺らす。
「俺も昔はこの浜辺でよく泳いでたんだよな」
堤防へと上がってきた尾崎が、ペットボトルの麦茶を差し出してくる。
「さんきゅ」
蓋を開けると、麦茶を喉元へ流し込んだ。彼もペットボトルを煽りながら、懐かしそうに砂浜を眺めていた。
堤防の上を歩いていくと、コンクリートの橋が架けられた小さな島が見えてくる。橋の入口まで歩いた潤子は一歩先に進むと、そのままくるりと一回転して彼に向き合った。
「この先の島ってね、うちのご先祖様が彼の奥さんと逢引してたところなんだよ」
「逢引って……嫁と?」
「そう。ご先祖様、職人さんだったんだけど、奥さんがお武家さまの娘だったんだ。駆け落ちしてここまで逃げてきたんだって」
「それって……殺されてもおかしくないやつじゃん」
二つの長い影が、橋の上をゆっくりと歩む。
「尾崎くん……本当に後悔は無いの?」
「無い。それどころか楽しみ過ぎて、夜も寝られない」
「……今日はしっかり寝てよ。お願いだから」
橋を渡り、参道を歩いていた二人は、やがて神社の境内へと辿りついた。そこに、橋守神社と書かれた古い石板が掲げられている。
「なあ、橋守神社ってことはさ。お前のところに何か縁があるのか」
「うん。ご先祖様が奥さんを匿うために、建てたものなんだよ。学業に御利益があるんだ」
加えて祀られている神様の御利益に恋愛成就があることは黙っていた。
「子孫ってことで、大サービスしてくれるかも」
「ははは。そうだといいな」
お賽銭を投げ、深く二回お辞儀をした後、パンパンと柏手を二度打つ。潤子は無心で尾崎の合格だけを願った。最後にもう一礼する。
木々に囲まれた帰り道の参道。潤子は尾崎のことばかり考えていた。そしてその心の中で、今までずっと我慢していた気持ちが、まるで決壊した堤防を乗り越える大きな波のように溢れてくる。
とうとう耐えられなくなり、その場に立ち止まってしまった。振り返った尾崎が、心配そうな顔を見せた。
「橋守?」
どうしても彼に、この気持ちを伝えたかった。
「私、本当のことを言うとね。卒業するのが怖かったんだ……」
「そうか……実は、俺もだ」
「橋守を継ぐことを選んだのに、尾崎くんに期待して……ずるい女だよね」
だけど口から出たのは、自責の念だけだった。後ろめたさで、気持ちがどうしても伝えられない。溢れ出した気持ちが涙に変わったように、視界が歪んだ。
だが。潤子がそう言った瞬間。尾崎のがっしりとした腕が彼女の背中に回った。そしてそのまま引き寄せられた。彼の、日の光を浴びた制服の匂いで包まれる。回された腕の中で、身体から力が抜けていくのが分かった。
「お前の……そんなところも全部――好きだ。潤子のことが好きだ。これからはお前の側で、橋守の名で、一緒に物語を紡がせてくれ」
尾崎を見上げた。伏せ目がちに、肩を震わせている。その震えが腕から伝わってくる。そんな彼が愛しくてたまらなかった。
「私も俊のことが好き。ようやく言えた」
諦めかけていた想いが叶った。目から、とめどなく涙が溢れる。俊の胸に顔を埋めながら、その広い背中を、何度も、何度もさすった。
――木漏れ日が祝福するかのように、ゆらめきながら優しく二人を照らす。彼らは何も言わず、お互いの存在を確かめるように抱きしめ合い、ただその場に佇んでいた。
彼らは再び歩き出す。夕日を反射した波がきらきらと輝いていた。潤子は、どこかぎこちなく彼の手を繋ぎながら橋を渡る。そよぐ潮風が気持ちいい。全てのものが輝いて見えた。




