第三十八話 身投げ
金島が甘い笑みを浮かべ、開いた扇子を潤子の前に差し出しながら近寄ってくる。潤子は妖艶な笑みを浮かべ、扇子をぱっと開いた。そして、彼女の、どこか挑発するような声が響く。
「さあ、わたくしを追うてみてくださいませ」
そう言った後、開いた扇子をはらりと橋の石畳の上へと放り捨てた。
「へっ?」
金島の顔は豆鉄砲を食らったように、だらしなく緩んでいる。潤子は欄干へ後ずさりをすると、そのまま川へと身を投げ出した。
バシャン! という音と共に、川から大きな水飛沫が上がる。悲鳴があちこちから聞こえた。
その時、橋の真ん中へ踊りでる影があった。尾崎は欄干に足をかけたかと思うと、躊躇なく川へと飛び込んだ。さっきよりも大きな水飛沫の音が山に木霊する。後を追うように、金島も川に飛び込んだ。
……冷たい。でも何故か、焼けた石に水をかけられたような、全身が冷やされていく感覚が心地よかった。潤子はその真っ暗な水の中で、川の流れに身を任せていた。水面から顔を出す。灯籠が淡い光を放ちながらゆらゆらと揺れ動いていた。立ち泳ぎしながら橋の方を見ると、二つの水飛沫が同時にこっちへと向かってくる。
一人は金島と、もう一人は尾崎だった。金島の方が速い。潤子は慌てて尾崎の所へと泳いでいこうとする。それでも金島の鬼気迫る顔が段々と近づいてきた。
捕まる! 金島の手が潤子を掴もうとしたその刹那。彼の周囲の流れが急に速くなった。金島は潤子を掴み損ねると、そのまま川下へと流されていく。彼の絶望した顔と共に。そして彼女の周りの流れがスローモーションのようにゆっくりとなる。
尾崎が近づいてくる。そのまま抱きしめられた。
「何やってるんだよ! バカ!」
水の中で潤子は思わず尾崎を抱きしめ返す。彼のがっしりとした身体の感触に、いいようのない安堵を覚えた。ごめん、と謝ろうとしたそのとき、潤子の挿していた銀のかんざしが、きらりと輝く。そして彼女の口から発せられたのは、どこか嬉しさを含んだ、そよ風に当たる風鈴のような声。
「必ずや追い付きくださるものと、信じておりましたわ」
それは潤子の溌剌とした声とは似ても似つかない、奥ゆかしい声だった。
涙を浮かべた尾崎がポカンとしている。ふと、女性の理事と一緒に眺めた、お紗夜さんの姿絵が頭に浮かんだ。
流された二人は下流に張られた網に受け止められた。網にかかっていた灯籠が大きく揺れる。
潤子と尾崎は網を絡みつかせたロープを伝い、ずぶ濡れになりながらも河原へと上がっていく。その先で金島が河原でうずくまっていた。
潤子は金島の前に立つと、表情を浮かべない顔で、はっきりと言い切った。
「残念でしたね。あなたが私に結婚を申し込む資格は、もうありません」
無意識に尾崎の腕に絡みつき、嬉しそうな笑みを浮かべた。そのことに気がついた潤子は、慌てて彼の腕から離れる。
「祭りの中の出来事だ。こんなの無効に決まっている」
今度は尾崎が金島の前に出る。潤子の手を取りながら。
「俺がその権利を頂きました。残念でしたね」
ポカンとする金島を後に、二人は土手へと上がっていった。
「これで良かったか? つきまとわれていたんだろう?」
顔を赤らめた潤子に、尾崎はそっけなく言葉をかけた。彼の手がそっと離れる。
「あ……」
潤子は離された手を彼に差し出しながら、名残惜しげな声を出した。
「本気で心配したんだからな。あんな無茶、二度とするな」
「ごめん……」
差し向けた手が萎れるように下ろされた。先を歩く尾崎の背中を見つめる。その背中はどこか広く、大きく見えた。
ミニバンに戻った潤子は両親にバスタオルでグルグル巻きにされた後に、ジャージに着替えさせられた。その後、通報を受けて駆けつけた警察官に、パトカーの中でこっぴどく叱られることになった。
祭りが終わり、静かになった橋のほとりで潤子は祠の石板をハンカチで拭いた。
「おおー、潤子さんか。災難じゃったのう」
「そんなことより、おじいちゃん、また力を使った?」
「おお。お紗夜さんに頼まれてな。彼女、橋を渡ってこっちに遊びに来てたんじゃよ。何、心配いらんよ。皆から力をもらってピンピンしとる」
確かにおじいちゃんの顔色は良さそうだ。
「何でもあの金島って男、前の旦那にそっくりだって言ってイライラしとってな。可愛い子孫のために何とかしてくれと頼まれた」
ご先祖様よ。橋の神様をこき使わないでください。
「お礼は言っておいて。それとさ、お紗夜さんって本当に身投げしたの? 私の身体を使って、尾崎くんに楽しげに話しかけてた」
「ああ、あれか。あの娘は身投げなどせんよ。ただ一計を案じただけじゃ。旦那と別れて弟子と結ばれるためにな」
やっぱり。
「それとお紗夜さんな。尾崎さんによろしくと言っておった。弟子に似ておったそうじゃ」
おじいちゃんと話していると、夏子がパタパタと走ってきた。
「お姉ちゃん、おめでとう。祭りアイドルランク一位達成! 天下取ったね!」
夏子がスマホを向けてきた。画面を見ると、橋から身を投げる所がばっちりと映っていた。
「やっぱりやりすぎちゃったかな……」
本当は扇子を放り投げるだけだった。だが変なスイッチが入り、気が付くと金島を挑発がてら、川に飛び込んでいた。
夏子がきょろきょろと辺りを見回した。
「あれ、尾崎お兄さまはどうしたの?」
「先に帰ったよ。彼のお父さんの車で」
――全てが終わった翌日、潤子は山形と町の役所に来ていた。
町長の里山の目尻が、厳格そうな顔の中で、これでもかというほど下がっている。
「クラファンの余りを全額寄付して頂けると」
潤子は明細を差し出した。
「はい。これからの橋の維持管理と、端里のリノベーションに使って貰えれば」
「分かりました。こちらは大事につかわせて頂きます。それと汐待橋守組合に、里逢橋の維持管理者の特命指定をさせて下さい」
「それは構いませんが……よろしいので?」
「はい。歴史的価値のある古い橋ですし、他に適任なんかいませんからね」
良かった。おじいちゃんも喜んでくれるかな。
役所を出た後で、潤子は山形に礼を言い、古き善きものを愛でる会の特認理事解任依頼書を渡した。
「山形教授。今まで本当にありがとうございました」
依頼書を受け取った山形が潤子に頭を下げる。
「こちらこそ。学術監修の報酬も頂けましたし、資料の調査も出来ましたし、会員も増えたんですよ。あの理事の二人も大喜びでした」
「良かったです。私もこの後、会員になるつもりです。そしたら今度、可奈と事務所に遊びに行きますね」
「橋守さんならいつでも大歓迎です。待ってますよ」
潤子は山形の車に乗り込んだ。車の中で、彼に祭りの出来事について話しはじめる。
「そう言えば、お紗夜さんの資料あったじゃないですか。身投げしたところを初代橋守の弟子に救われたっていう記録」
「そう言えば、ありましたな」
「実はあれ、お紗夜さんが身投げしたふりをしてたんですよ。旦那と別れてお弟子さんと結婚するために」
山形が潤子の方へと向いた。
「ほう。それは興味深い。どこで知ったんです? そんな話」
「本人? からですかね。間接的に……」
「ははは。そうでしたか」
「信じるんですか?」
「ええ、あなたは嘘を付くような人ではないですからな」
こうして潤子の高校最後の夏休みが終わりを告げる。
――新学期に入り、いよいよ潮見大学の入試が迫る。潤子は推薦入試の前に実施される、総合選抜入試に出願していた。受かってしまえば気楽になれるから。
尾崎にメッセージを送った。
『明日、いよいよ受験だよ。緊張する』
すぐにピロリンとスマホが鳴る。
『橋守なら余裕だろ。寝てても受かる』
流石に寝てたら受からないんじゃないか。だけど潤子は温かい気持ちになった。だがすぐに、卒業した後のことを考えてしまう。胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱいになった。




