第三十七話 求婚の舞
「結婚ですか?」
草が覆い茂る土手の下。尾崎の耳に、潤子の驚いたような声が降りてきた。
「ええ。僕のパートナーになる方は、潤子さんしかいないと確信した」
「急にそんなこと言われても困ります。プライベートでの付き合いもありませんし」
その困惑の言葉に、安堵している自分がいることを尾崎は自覚した。
「うん。そこは分かってるよ。だから結婚を前提としたお付き合いから始めたい」
「……ごめんなさい。私、嫁には行けないんです」
「それも分かってるよ。婿を取らないといけないんだろ?」
尾崎は休憩所を伺うような格好で、そっと視線を上げる。
「提案があるんだ。潤子さんが継ごうとしている橋をうちの会社に預けないか?」
潤子の姿が目に入った。何を言ってるんだという顔で金島を見ている。
「維持管理も大変だろう? 潤子さんが嫁に来てくれれば、総力を上げて汐待橋だっけ? を会社でメンテしてあげるから」
彼女はただ呆然と口を半開きにしている。途端にその肩が震え出した。
「……そんなこと、出来ません」
耳に入ったのは、押し殺すような低い声。その声には、苛立ちが十二分に含まれていた。
「潤子さんは次期社長夫人として、社員たちが作業するのを眺めているだけでいい。もうこれからの心配もしなくていいし、将来のことを考えるのならベストな選択だと思う。会社としてもアピールになるし、一石二鳥じゃないかな」
「……」
潤子は何も言わずに押し黙っている。ふいに金島が立ち上がった。尾崎は慌てて草むらの中へ腰をかがめる。
「良く考えてくれると嬉しい。次に会うときに、返事を聞かせて」
その声を最後に金島の気配が消えた。遠ざかる彼の作業靴の足音だけが尾崎の耳に重く響く。続いて彼女の立ち去る足音が、心を虚しく打ち据えた。
***
――潤子は帰りのミニバンの座席で、終始俯いたままだった。隣のシートに座る尾崎から、何か言おうとする気配が伝わる。ざわつく気持ちに居ても立ってもいられず、顔を上げた。
「尾崎くん、祭り楽しみだね。私、帰ってからいっぱい練習しないと」
「あ、ああ。そうだな」
彼の声は、どこかぎこちなかった。
「ちゃんと婿役には、尾崎くんを推しておいたから」
潤子は笑おうとして、上手く笑えないことに気づき、心の中で舌打ちした。
――祭りの日が明日に迫る。浴衣姿となった潤子は、自室で扇子を持ち、舞の最終確認をしていた。
「えっと、扇子を閉じて恋文を書く動作と……」
その時、スマホから呼び出し音が響く。町役場からだった。
「はい。もしもし」
「あ、橋守さんですね。谷です。奥里祭りのことで連絡したいことが」
「何でしょう?」
「実は橋守さんの相手役……婿役の変更がありまして」
「えっ。どういうことでしょうか?」
谷曰く、祭りの協賛企業から婿役の指定があったそうだ。一千万円もの協賛金を受け取った手前、どうしても断われなかったと。
電話を切った後、潤子は肩を震わせた。
「ふざけないでよ……」
すぐに尾崎に電話をかけた。数コール後に、彼の、どこかしょぼくれた声が聞こえる。
『ああ……橋守』
「さっき谷さんから、ふざけた電話をもらった。婿役を交代するって」
『ああ、こっちにも電話があった。でも……お前が交代を申し込んだんじゃないの?』
尾崎が言うには、潤子から婿役の変更を申し込んだことになっていた。彼女のスマホを握る手に力が入る。
「尾崎くん……私からそんなこと絶対に言ってないから。お願い、信じて。祭りのときにそれを証明する――見てて」
『え、それってどういう……』
気持ちが荒ぶり、話を続けられなかった。彼にそれだけ伝えると、電話を切った。
――祭りの日がやってきた。急な告知にも関わらず、奥里祭りは沢山の人で賑わっている。夕日が闇に沈んだ後の里逢橋は虹色にライトアップされ、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
浴衣を纏った潤子は大勢の人に囲まれ、スマイルを浮かべていた。小一時間ほど歓談した後、ヘトヘトになりながらも駐車場へと歩いて行く。
そこに大林率いる撮影チームと、ビデオカメラを片手で握る智子が待っていた。
「潤子さん、相変わらずお綺麗で」
「潤、勝負カメラ持ってきたぜ。いい絵を撮ってやるからな」
潤子はどこか浮かない顔をしていた。智子がまるで慰めるような、静かな口調で言う。
「……なあ。婿役って尾崎じゃないんだな」
「うん。前日に連絡が来て、婿役を交替するって言われた」
大林が思い出したように口を開く。
「そう言えば、婿役の金島さんでしたっけ。潤子さんにぞっこんらしいですよ」
彼のその言葉に、思わず顔を上げた。
「なんでも、祭りアイドルサイトにアップされた潤子さんの動画とか写真を見て、速攻でファンクラブを立ち上げて、自らが会長の座に就任したとか」
まさかのファンクラブ。
「潤子さんを支えるのは僕しかいないって、息巻いていたとか」
それに色々と拗らせてるようだ。
「教えてくれてありがとうございます。まあ、個人的にそれに応える義理は、これっぽっちもないですけどね」
彼らと別れた潤子は、駐車場のスペースに立てられたテントの中で、係員から声が掛かるのを待っていた。その対面には、同じく浴衣姿の金島が甘い笑みを浮かべ、足を大きく広げながらパイプ椅子に座っている。
ふいに彼が立ち上がったかと思うと、潤子の側に寄り、彼女の耳元へ囁いた。
「結婚の返事、舞の中でくれるんですよね。ああ……潤子さんを早く抱きしめたい……」
その囁きは、溶けたザラメのように熱く甘く、ねっとりと鼓膜に絡みついた。
思わず立ち上がり、彼を睨みつける。
「こんな所で止めてください!!」
「ごめんごめん。気が急ってしまった」
何事も無かったかのように、彼は自分の席へと戻っていった。
橋の方からは、太鼓のポーンという音や笛の甲高い調べが響く。踊りが始まったようだ。所々で手拍手が打たれる。せっかくの祭りだというのに、苛立ちを感じずにいられない。
暫くして大きな拍手が鳴ったかと思ったら、法被を着たおじさんがテントの中へと入ってきた。
「橋守さん、金島さん。出番です。よろしくお願いします」
金島が手を差し出してきたが、潤子はそれを無視した。立ち上がると、橋に向かってツカツカと歩き出した。
「つれないなぁ……」
彼がその後を追う。
橋は大勢の人に囲まれていた。河原にも沢山の人が詰めかけている。橋の入口には尾崎が浴衣姿で佇んでいた。思わず彼に微笑んだ。彼もぎこちなくだが微笑み返してくれる。
潤子は扇子を手に持ったまま、橋の真ん中に佇んだ。金島は橋の脇に置かれた畳の上で跪き、ずっと潤子のことを見据えていた。
橋の両脇。男たちが、ライトを固定したポールを両手で持ちながら忙しなく動かしている。揺れていたオレンジの光の円は、やがて潤子と金島の所で止まる。
潤子は背筋をピンと伸ばす。閉じた扇子を胸の前に持っていくと、口上を高らかに述べた。
「心より慕い奉るお方様。どうか、我が心の一念を込めしこの舞、どうぞ御覧遊ばしてくださりませ」
扇子を見つめながら、それを高く掲げた。恋文を書くように、ゆっくりとそれを揺らす。太鼓のポーンという音の合図で、身体をしなやかに回転させる。
そして扇子を襟元の中へと仕舞う。思い悩んだ仕草で首を傾げ、身体を捻ると胸の中の扇子を再び高く掲げた。それをゆっくりと下げながら、金島へと向けた。
向けた扇子を半開きにし、顔へ当てる。扇子の隙間から彼女の流し目の視線は金島へと向く。まるで恋焦がれた乙女のように扇子を下ろしながら俯くと、太鼓の音頭と共に、優雅に身体を回転させた。
回転させた身体を金島へと向けた潤子は、彼の前で扇子を捧げるような仕草をする。
彼はゆっくりと立ち上がり、自身が持つ扇子をぱっと開いた。潤子の方へとその扇子を向けながら、摺り足でゆっくりと彼女へと歩み寄る。
若い女の子たちのキャーという声が聞こえた。




