第三十三話 月の夜
潤子は尾崎の肩に頭を預けながら、橋の下を流れる川を見つめていた。
「……この前は変なメッセージ投げちゃってゴメンね。でも、あれが私の本心なんだ……」
押し殺すような、どこか切なさを孕んだ声。尾崎は何も言わなかった。
彼の静かな息遣いだけが、身体に伝わる。暫くしてから、迷いを含んだような低い声が潤子の耳元に響いた。
「ああ……分かってる、つもりだ」
……分かってる。その声を心の中で反芻する。なら橋守を継ぐことも、きちんと話しておきたかった。
「前に、どうして橋守を継ぐのか、その答えを見つけたら、尾崎くんに教えるって言ったよね」
「誰かの架け橋になるのとは違ってたんだよな」
……覚えてくれてたんだ。
「うん。クラファンの動画撮影しているときに、あそこで伝えたことが答えになるのかな。あのとき、なんで橋守を継ぎたいのか分かった気がしたんだ」
そう言った後に、顔に熱が籠るのが分かる。それが恥ずかしさから来るものなのか、高揚から来るものなのかは分からなかったが。話を続けた。
「橋の上でみんなが笑っているのを見て、喜んでいる自分がいたことに気付いた。それにみんなの笑顔をずっと見ていたかった。だから橋守を継いで、橋を残していきたいと思った」
尾崎の肩に乗せていた頭を起こし、顔を彼へと向けた。胡座をかきながら、ただ黙って川を眺めている姿が目に入る。ふいに彼の身体にぐっと力が入ったように見えた。
「……俺も、ずっと考えていた。医者の息子だから。親父の期待に応えたいから。だから医者になるんだと思っていた」
彼は何か思い詰めた気持ちを吐き出すように、長いため息をついた。
「今は違う。橋守をずっと見てたら、そのことに確信が持てた。俺が関わった誰かが残す物語を見たかったんだって思った。お前の二番煎じみたいだけどな」
そう言うと、尾崎は穏やかな笑顔を見せた。それは、川を照らす月光のように柔らかかった。
「まあ、俺、いつも万年二位だし、それでもいいよな。お前の次ってことで」
だけど何故かその笑顔は幻のように感じた。月と同じように欠けながら、きっといつかは消えてしまうような。
「私ね……」
……外に出て、尾崎くんの所に行こうと考えたの。
「ごめん、なんでもない」
俯いた潤子に、彼が真面目な顔を向けた。
「……なあ、橋守。一つだけお願いを聞いてくれるか?」
「お願い?」
「俺たちが友達の間はさ、彼氏……作らないで欲しい」
「作らないよ。彼氏として付き合うのは婿になってくれる人だけ。重いでしょ、私」
「軽いよりは全然いいよ。あと、それを聞いて安心した」
そう言うと、彼は、どこかほっとした表情で立ち上がった。
「そろそろテントを張らないと」
「手伝ってあげる」
潤子も立ち上がると、レジャーシートを綺麗に畳み、リュックの中へと仕舞った。
二人は橋の先にある集落へと続く、暗い森の中へと姿を消した。
――テントに戻った潤子の身体が、ふいに揺さぶられる。
「潤、起きろ。頼むから」
智子の声だった。ダイバーウォッチを見るとまだ夜中の三時だ。
「どうしたの……?」
「トイレ行こうとしたらさ、怪しいテントがあったんだ」
「……それ、尾崎くんのだから安心していいよ。お休み」
「尾崎? また潤の後を付けてきたのかよ……」
そんな智子の声が聞こえたような気がした。
朝四時半に再び目が覚めた潤子は、テントの外へと顔を出した。少し遠くを見ると、尾崎のテントが見えた。
朝食の準備をはじめた。炭火コンロの上で、昨日作っておいたおにぎりに醤油をかけて炙る。携帯用ガスコンロでお湯を沸かし、マグカップに入れたインスタント味噌汁にお湯をかけた。
「いただきます」
一人で両手を合わせた後、焼いたおにぎりを口に入れ、よく噛んだ。醤油の香ばしい匂いと、パリッとしたお米の食感がたまらない。
――その三時間後。他のみんなが起き出してきた。
山形は焼きおにぎりと味噌汁の入ったマグカップを両手に持ち、今後の予定を潤子に話している。
「今日のうちに橋守蔵の収納物を全て、大学の研究室に持っていこうと思ってるんですよ」
「それなら運ぶの手伝いますよ」
潤子はそう答えた。昨日のうちに理事の男性が一度街に戻り、アルミの荷台付きのトラックを持ってきていた。
朝食の片付けを終わらせ、折りたたみ式のリアカーで何往復かして、中にあるものは全て待避所に停めてあるトラックに積み込んだ。一度集落に戻り、潤子は理事たちと話をした。
山形が二つの目録を差し出してくる。
「こちらに記載したものを預からせてもらいました。調査終了次第、それらをお返しします」
潤子が目録を受け取りながら応えた。
「分かりました」
目録を確認し、内容に相違ない旨のサインをすると、その内の一つを山形に返す。
彼は目録を手で振りながら、やる気に満ちた顔を見せた。
「さて、まずはひと仕事終わりましたね。しかし、凄いものが残っていましたな」
橋の設計図、建造日記、祭りの資料、技巧書、初代橋守の恋文……どれもとんでもない価値になるのだそうだ。恋文も、そうなのだろうか。
「クラウドファンディングの成功と、これだけの資料が残っているとなると、橋の方も、国から補助金を引き出せるんじゃないかと考えています。知り合いに当たってみますよ」
山形はどこかやり切った顔で、マグカップを口に付けていた。
女性理事も清々しい表情で、手をぐっと握っている。
「祭り関連の資料もまとまり次第、報告します。ぜひ復活させましょう!」
その後も取り留めのない話をした。彼らは父さんが迎えに来るまでは、みんなこの場に残ってくれるらしい。潤子はいったん理事たちの元を離れ、ぶらぶらと散歩をしていた。
夏子と尾崎が草むらの向こうで、何やら話しているのが耳に入る。気になったので近くまで忍び寄り、聞き耳を立てた。
「尾崎お兄さまも温泉へ入って下さい。帰りは爽やかな匂いをお姉ちゃんに嗅がせたいですよね」
妹が何かとんでもないことを言ってる気がする。
「テントの中で、新しいのに着替えたんだけどな……」
「それならなおのことです。いっそのこと、お姉ちゃんと二人で入りたいですか? お姉ちゃんの身体、とっても引き締まってるから、目の保養にもなりますよ」
「えっ……と」
そこは即、断る所ではないだろうか。
「なら、先に入ってて下さい。お姉ちゃんを呼んできますから」
たまに暴走するのが玉に瑕である。
「夏子、呼んだ?」
罠にかかる前に先制攻撃を仕掛けてみた。尾崎はギョッとした顔を見せた。妹は涼しい顔をしている。
「お姉ちゃん、尾崎お兄さまに温泉を勧めていたの!」
そう言って、抱きついてくる。
「うん。聞こえてた。残念だけど、彼とは一緒には入れないからね」
「ごめんなさい。少しお節介焼いちゃった」
この素直さ。やっぱり夏子は可愛い……姉バカなのだろうか。対する尾崎はどこか残念そうな顔をしていた。もしかして、期待していたのか。
結局、彼は一人、着替えを持ってビニールプールのある物陰へ向かって行った。
夕方になると、父さんからメッセージが入った。そろそろ着くから下りてきなさいと。荷物をまとめ、集落を出た。途中、祠に寄り、ハンカチで石板を拭いた。
「おじいちゃん、来週また来る。いよいよ工事だから」
「おお、そうか。楽しみじゃの。おや……」
おじいちゃんは後ろにいた尾崎を見ると、いつもの謎めいた助言をした。
「そちらの……尾崎さんとやらか。お主も悩んでいるのか……思ったままに進みなさい」
それを聞いた尾崎の顔は、グラスに入ったサイダーのように爽やかさを纏っていた。
「はい! このまま突き進みます!」
潤子は訝しげに二人を交互に見やる。
「二人とも、何の話をしているの?」
おじいちゃんは、どこかはぐらかすような口ぶりで答えた。
「なあに、潤子さんにとっても、とても良い話じゃよ」
「ふーん。そうなんだ」
そう相槌を返した後、昨日から気になっていたことを聞いてみた。
「そう言えばおじいちゃん。昔に橋の職人さんたちと一緒にここへ来たの?」
「おお。そうとも。それまではもっと賑やかなところにいての」
やっぱりそうだった。実は偉い神様だったりするのかな。
おじいちゃんに一旦別れを告げ、川沿いのボロボロの道を下る。山道まで戻ってきた。そこで潤子たちは理事たちに別れを告げる。
「山形教授、調査の件はよろしくお願いします」
「こちらこそ。また報告出来るのを、楽しみにしてますよ」
潤子たちを乗せたミニバンが、その後ろに尾崎の自転車をマウントしたまま夕日の陰る山道を下りていく。
――来週になった。いよいよ橋の修繕工事が始まる。




