第三十二話 お紗夜さん
女性理事は、潤子と浮世絵を交互に見比べている。潤子は絵の中の女性について、理事に伝えた。
「その絵の女性、きっとお紗夜さんっていう人だと思います。初代橋守の娘です」
「えっと……本当だ。『お紗夜像』って書いてある」
興味を持った女性理事は、一緒に収められた文献を片っ端から読み始めた。集中している彼女の姿を見て、一旦蔵の外に出て時間を潰すことにする。数時間後、改めて彼女に呼ばれた。
「興味深かったわ。お紗夜さんって、二代目橋守だったのね。嫁入りした後、旦那の家から通いで橋守の仕事をしてたみたい。で、旦那に橋守家の資金を使い込まれた挙句、不貞までされたって書いてある」
お紗夜さん、だいぶハードモードな人生を送ったようだ。
「それでお紗夜さん、将来に希望が持てなくなって橋の上から身投げしたんだけど、勘五郎……初代橋守ね。彼の弟子の一人が身を挺してお紗夜さんを助けたって、記録にはあったわ」
「それは熱い展開ですね」
「うん、ドキドキしながら読んじゃった。その顛末を弟子から聞いた勘五郎は激怒したわ。彼の直筆文も読んだんだけど、もの凄い迫力の文体で書いてあった。その後でこの旦那さん、川のほとりで土左衛門になって見つかったと」
土左衛門とは水死者のことだ。旦那のやつ、消されたな。
「お紗夜さんは、父でもある勘五郎の承認の元、助けてもらったお弟子さんを婿に入れて結婚して、めでたしめでたしと。それと、このことがきっかけで、勘五郎は遺言書に『橋守を継ぐ者は橋守姓を名乗れ』と遺したんだって。要は橋守の女性は婿を迎えて、自分で財産を管理しろということね」
潤子はへぇと思った。婿の掟はここから来てたのか。
「ここからも面白いんだけど、お紗夜さんのエピソードが由来となって、お祭りが開催されるようになったんだって」
「お祭りですか?」
「ええ。身投げ祭り」
身投げ祭りとは。ハーメルンの笛吹きを想像してしまった。あれはネズミが次から次へと飛び込むやつか。
「興味ありますね。どんな祭りだったんですか?」
「次期橋守が女性だった場合に開催されたようね。橋の上に並んだ婿候補達の前で、次期橋守の女性が求婚の舞を披露する」
「それで?」
「舞が終わった後に女性は川に飛び込む」
潤子は目を丸くした。それはまた、過激なことをしたもんだ。
「本当ですか?」
「ええ。そうみたい。それで婿にならんとする男性は川に飛び込んで女性を助けに行くと。で、最初に女性に手を触れた者が婿になる」
「下手すると死人が出ません? その祭り」
「婿候補たちの方は、実際に何人か死んだみたい。川の中で喧嘩とかもして。ま、女性の方は死亡記録は無かったけど」
橋に関わる者として、徹底的に水泳訓練をやらされるからなあ。着衣のまま川を潜ったり泳がされたりするし。安全対策をこれでもかとした上でだけど。潤子はそのことを思い出して、どこか遠い目をした。
女性理事はニコリと微笑んだ。
「でもこのお祭りって流石に過激過ぎて、どこかで途絶えたんじゃないかな」
それは確かに。今、彼女が話してくれた内容で開催申請したら、秒で却下されそうだ。それでも求婚の舞に的を絞れば、許可が下りるのではと思った。
「身投げは駄目にしても求婚の舞の所だけ、祭りとして復活させたら面白そうですね」
「そうね。当時の様子を描いた絵とかもあったし、古楽譜や舞踏譜も残ってたし、再現できるんじゃないかしら」
それは良いことを聞いた。ぜひとも企画を立ててみたい。
「婿さん候補を演じる人が、橋の上で求婚に応じる所までセットにすれば、なんかロマンチックですよね」
「確かに。祭りの趣旨を理解してもらえば、やりたがる人もいると思うわ」
お、行けそうだ。橋の修復後に開催する祭りとしてもいいのでは。帰ったら早速、父さんと母さんにも相談してみよう。
蔵から出た潤子のスマホがピコンと鳴った。確認すると尾崎からだった。
『暇か? 近くにいるのなら、会いたい』
否が応でも胸が高まった。だが帰宅予定は明日だ。はやる気持ちを抑えながら、スマホをタップする。
『今、あの集落に調査で来てる。明日なら会える』
すぐに返事が返って来た。
『結構近くだな。今からチャリに乗ってそっちに行くよ。着いたら連絡する』
は? 潮見市からここまで車でも三時間はかかる。自転車だと何時間かかるんだ? すぐにスマホにメッセージを打ち込んだ。
『危ないから止めて。お願い』
既読は付かなかった。
その後、潤子はことあるごとにスマホばかり見ていた。幸いなことに父さんがポータブルバッテリーを置いていってくれたので、電池切れの心配はしなくて済んだ。あの後も何回かメッセージを送ったが、一度も既読が付かない。
夜になった。テントの中でシュラフに包まりながら、スマホの画面だけをじっと見つめていた。どこかで事故にでも遭ったんじゃないのか。警察に連絡した方がいいのか。気が気ではなかった。夜の八時を過ぎた頃だろうか。送ったメッセージが全て既読になった。返信メッセージが来た。
『ようやく着きそうだ』
潤子は跳ね起きると、リュックを手に掴み、懐中電灯を片手にそのまま橋の方へと駆け出した。橋の上に立ち、川沿いの道を見渡す。朧げに明滅するライトが、木々の間を縫うようにこちらに向かってくる。よく見るとそれは尾崎だった。
潤子は橋の入口で待ち構えた。汗だくの尾崎が自転車から降り立つ。息を切らせながらも、ようと手を掲げている。
「あーきつい」
「バカっ! 心配したんだからね!」
涙目で叫んだ。彼はびっくりした様子を見せた後に、頭をかいている。
「……橋守にバカって言われたの二度目だな。でもゴメン。それと心配してくれてありがとう」
ありがとうという言葉に、口からはそれ以上、何も出て来なくなる。彼は腰に下げたペットボトルを手に持つと、景気よくがぶ飲みした。
リュックからタオルを出して、彼に渡す。
「ほら。使って」
「汗だくだし」
「そんなの、別にいいから」
「……分かった。ありがとう」
尾崎はタオルで汗を拭くと、そのままバックパックにしまおうとした。その手からタオルを奪い取る。
「あ……クリーニングに出して返すから」
「私が洗うからいいよ」
二人は橋の上で、潤子が敷いたレジャーシートの上に並んで座っていた。細長いスプレー缶を尾崎に渡す。
「はい。虫除けスプレー。今の尾崎くん、蚊からみればご馳走に見えるよ」
「サンキュ」
彼はその場で身体に向かってスプレー缶をシューシューとすると、そっと手渡してくる。両手でそれを受け取ってすぐにリュックに戻した。
「なあ、汗臭くないか」
そう言いながら、尾崎は少し身体をずらそうとする。
「全然」
ふいに潤子は彼の肩に頭を乗せた。尾崎の動きが止まる。
「友達なら……これくらい、いいでしょ」
彼女の声は、微かに震えていた。
「ああ……別に構わないけど」
尾崎の声も震えている。
橋の上を覆い茂る葉がサァーと揺れると同時に、石鹸の香りと混じった彼の僅かな汗の匂いが、潤子の鼻をくすぐる。その匂いはとても心地よく、心を落ち着かせてくれた。
その姿勢のまま、木々から漏れる月明かりに照らされた川をぼんやりと眺める。せせらぎの音だけが、潤子の耳に優しく届いていた。




