第三十話 橋守蔵
潤子は真っ暗な中で、再び目が覚めた。ダイバーウォッチを見る。ぼんやりと光を発する針が八時を知らせていた。
「嘘、もうこんな時間!?」
無意識に目覚ましを止めていたらしい。スマホを手に取る。メッセージは昨日のまま。
「……」
何故か腹の立った潤子は、魚のスタンプを尾崎に送りつける。すぐにカワウソのスタンプが返ってきた。相変わらず良く分からないそのスタンプを見ていると、どうしてか気持ちが落ち着いてくる。
カーテンをシャッと開けると、青空が目に飛び込んできた。階段を上り、リビングへと向かう。誰もいない。ただ、テーブルの上にはラップのかかった皿が置いてある。皿の中に牛焼肉がこんもりと盛られていた。誰も、それに手を付けた様子はない。
「家族にも気を使わせちゃったか……」
潤子はキッチンへ皿を持っていくと、レンジで焼肉を温め直し、味噌汁が入った鍋に火をかける。冷蔵庫からはサラダを取り出した。
用意した朝食すべてをトレーに乗せ、リビングのテーブルの上に置く。
「いただきます……」
久しぶりに一人で朝食を食べた。食べた後、キッチンで食器を洗う。緩めのジーンズと大きめの白Tシャツに着替えた後、橋桁から管理棟へと続く階段を上る。橋の上に出ると、何人かの釣り人が、のんびりと竿を垂らしているのが見えた。
橋のたもとにある、橋守釣具店のガラス戸を開けた。父さんがカウンターから顔を出す。
「お早う、父さん。ごめん、寝坊した」
「お早う。なあに、たまにはゆっくり寝るのも悪くないさ」
父さんに怒られたことは一度もない。本当に間違ったことをしたときでも優しく諭され、何故か自分からこうしようって気持ちにさせられてしまうが。
「九時半に出発だよね」
「ああ。おじさんが来たら店番を交替するから、そうしたら出かけよう」
今日は橋守蔵に行く日だ。腕時計は九時二分を示していた。そろそろ可奈と智子も来るか。
戸がガラガラと開いた。隼人と夏子だった。
「……姉ちゃん。大丈夫か?」
弟のいつもの軽口は身を潜めていた。あれだけ寝坊したら、鬼の首を取ったように騒ぎ出すはずなのに。
「お姉ちゃん。夏子がずっと側にいるから」
夏子が腕に絡んでくる。妹もお見通しか。相変わらず可愛い。
「大丈夫だよ。二人とも、心配してくれてありがとう」
潤子はそう言って弟と妹を同時に抱きしめた。隼人からは、がっしりとした身体の感触が伝わる。来年は高校生だもんな。
隼人が悶える。
「やめろってば。恥ずかしいから」
「お兄ちゃん、暴れないで。せっかくの尊いタイムなのに!」
夏子が抗議する。尊いタイムとは。
その時、後ろから声がした。
「潤子ちゃん……」
振り返ると可奈が手を口に当てていた。智子は面白そうに見ている。ちょっとまずったか。
「お早う、可奈、智子。これは姉弟間のスキンシップだから気にするでない」
なんか可奈の顔が曇りだした。隼人がするっと横を抜けたかと思うと、可奈を抱きしめた。ナイス弟。
「お早う。可奈さん」
「隼人くん……」
みるみる可奈の機嫌が良くなっていくのが分かる。それになんか絵になっている。釣具屋の中だけど。
「お早う。朝っぱらからみんな元気だね」
おじさんだ。にこにことしながら中に入ってきた。隼人と可奈は、今までのロマンスが嘘だったかのようにパッと離れた。顔だけが余韻を残したように赤い。
父さんが立ち上がった。
「よし、それじゃあ行こうか。母さん呼んできて」
潤子が隣の定食屋にいる母さんを呼びに行く。戸の前で中の様子を伺いながら待っていると、おばさんに定食屋の引き継ぎをお願いした母さんが、店から出てきた。
みんながミニバンへ乗り込む。
「私はお姉ちゃんの隣」
そう言って夏子は潤子の隣に座り込んだ。本当に優しくて出来た妹だ。
ミニバンは一路、里逢橋を目指す。山道を走り、橋へと通じる荒れ果てた道路の前で停まった。既にもう一台、白いバンが停まっている。バンから山形が、探検者が着るようなベージュ色の服装で出てきた。
「やあやあみなさん、今日はよろしくお願いします」
ニコニコしている山形の後から、さらにぞろぞろと下りてくる。調査隊は総勢六人。課長の谷の姿も見えた。
合計十三人の集団が、里逢橋を目指す。川のせせらぎを聞きながら、坂道を歩いていくと橋に辿りついた。
潤子が皆に向かって言った。
「みなさんは先に橋を渡ってて下さい。私は少し用がありますので」
隼人が察したような顔で、その後に続けた。
「姉ちゃんトイレだから、早く行ってやろうぜ」
あんにゃろう。だけどそれで行ってくれるのなら助かる。
潤子は全員が橋を渡るのを確認した後に、橋の側にある祠に向かう。祠の中に入ると、石板をハンカチで優しく拭いた。すぐにおじいちゃんが現れた。
「おじいちゃん、橋を修繕できることになった。もう少しの辛抱だからね」
「おお、潤子さんか。すまんのう」
おじいちゃんは、潤子のどこか寂しげな表情を見逃さなかった。
「ん? 潤子さんは悩んでおるな」
「へへ。おじいちゃんにはお見通しか」
おじいちゃんは優しい顔になった。
「心配するでない。きっと大丈夫じゃから。尾崎さんとやらの決断を尊重してやりなさい。それで上手くいく」
決断を尊重するって、どういうことだろうか。でも、おじいちゃんがそう言うのなら、きっと大丈夫なんだろうな。
「分かった。みんなの所に行かないと。またね」
おじいちゃんに手を振ると、駆け足で橋を渡って行った。
全員が蔵の前に集まっていた。山形が一歩前に出る。
「ほう。これは江戸時代中期あたりに建てられた蔵ですな。橋も同じ時代に建てられたと伝承に残っていました。鍵屋さん、それではお願いします」
「はい。それでは失礼します」
鍵屋と呼ばれた年配の男性が蔵の前に立った。鍵開け道具を使い、手慣れた手つきで錠前に対して何かしている。カチャカチャという音が暫く続いた後に、ガチャリという音がした。
「開きました。何が入っているのか楽しみですね」
鍵屋はどこか興奮した様子だ。それを山形が制した。
「残念ながら、今日は中に入れませんよ。換気と中の空気のチェック、空気清浄機の設置で終わりです」
山形曰く、カビや真菌が繁殖していた場合、それをうっかり吸い込むことで、重大な健康被害を被ることもあるんだとか。
スマホを構えた智子が、どこか残念そうに声を上げた。
「まじかー」
対照的に山形は興奮気味だ。
「ここらの集落も江戸時代からのものだし、なにか見つかるかもしれません。蔵の作業が終わったら、一帯を調査してみましょう」
その後、ガスマスクを付けた調査員、といっても古き善きものを愛でる会の理事なのだが、彼女が中に入り空気清浄機を設置後に外に出てきた。
「粉塵も基準値以下でした。おそらくですが、五十年くらい前までは頻繁に手入れがなされていたのかもしれません。それより幾つもの函が収められています。これは調査のしがいがありますよ」
函というのは文書の保管庫のことだ。ガスマスクを外した彼女はどこか興奮気味だ。もう一人の理事はテントを組み立て始めた。その様子を潤子はしげしげと興味深そうに眺める。
「あの、ここに寝泊まりするんですか?」
理事の彼が答えた。
「ええ。蔵に空気清浄機を設置したことですし、見張る必要もありますから」
潤子は思わず口に出してしまった。
「なら、私も一緒に居させて下さい!」




