第二十九話 自覚
顔を上げた尾崎は何も言わなかった。ただ彼の目は、潤子に釘付けになっている。彼に見られていると思うと、なんだかドギマギしてきた。身体がやけに熱い。
それでもカツンとヒールを鳴らし、澄まし顔をした潤子は、アイスコーヒーを乗せたトレーをテーブルの上にそっと置いた。遠慮がちに彼の前に座ると、胸元の布地を摘んでパタパタとさせ、おもむろにストローを唇につける。
「最近暑くてかなわんねー。ごめん、急に誘ったりしちゃって……尾崎くん?」
潤子が尾崎へ視線を移すと、彼は俯いていた。顔を真っ赤にして。あ……しまった。
「……たはは。可奈や智子といるときと同じようにやっちゃった。ごめん、はしたなかった」
尾崎はようやく目を合わせた。今度は潤子の頬が染まる。彼は慌てたように手を振り、上ずりながら答えた。
「……あ、いや。大丈夫だから。気にするな」
しばしの間、沈黙が走る。でも不思議と以前よりは心地良いような気もする。ストローでアイスコーヒーを吸い込んだ後、心の中の気持ちを切り出した。
「あのさ、きちんとお礼言いたかったんだ」
「……お礼?」
「ほら。前に車の中で寄付金は何とかするって、尾崎くんが言ってくれたこと」
「ああ。あれか。俺が勝手にやろうとしたことだし、礼なんかいらないよ。大したこともしてないし」
潤子はそれには答えずに、ただ尾崎の目を見つめていた。よく見ると穏やかで優しそうな二重の目をしている。自分の頬が緩んでいるのが分かった。
「それでも凄く嬉しかった。あのときはね。誰もいない真っ暗な森の中を、一人で歩いている気分になってた」
そう言った後、はにかみながらテーブルを見つめた。温かい思いがとめどなく溢れてくる。
「尾崎くんの言葉……そんな私を、明るい光で照らしてくれているようだった。だから本当にありがとう」
理由なんかなしに、ずっと尾崎の顔を見ていたかった。とても眩しく感じる。自然と笑みが零れるのが分かる。目に涙も浮かんできた。
「それに、三百五十万円を大したことないなんて言わないで。それ、私の今の年収より上だよ。へこむから」
「なんだ、バレてたのか。そりゃそうか、主催者だもんな。俺はお前のワガママが叶えば良かった。ただそれだけだ」
尾崎は笑おうとして失敗した。気がつけば潤子に手を握られていた。だがそれは一瞬だった。すぐさま彼女は手を放した。
「ご、ごめん。つい……」
潤子は掌を自分に向けながら、両手を胸の前で絡めていた。どこか愛おしそうに見つめながら。
すぐにハッとした。店内に流れる有線の穏やかな旋律だけが、やけにはっきりと耳に響く。
二人はお互いを見つめ合ったまま、凍りついた時の中にいた。ふいに魔法が解けたように、潤子の口が慌ただしく動いた。
「今日の私、どうかしてる。またね!」
彼女は顔を真っ赤にしながらそう言うと、麦わら帽子を被り、バッグを肩からかけた。コーヒーを飲み干すことも、トレーを片付けることも忘れ、白いワンピースを翻しながら、喫茶店を駆け足で出て行ってしまった。
***
残された尾崎。握られた手をまじまじと見ている。まだ仄かに潤子の体温と香りが、その手に残っていた。
「橋守……いくらなんでもそれは反則だろ……」
彼はふぅと息を吐く。その顔には、ぎゅっと心を絞られたような、切なげな表情が浮かんでいた。
***
夕方六時、家族が集まるリビングの絨毯の上で、潤子はあぐらをかきながら、どこか遠くを眺めるようにテレビをぼーっと見ていた。
「「「いただきます」」」
「いただきます……」
食事の挨拶のタイミングが遅れた潤子は、茶碗を片手に持ち、中の麦入りご飯をじっと見つめている。
隼人が心配そうに、潤子の顔を覗き込んだ。
「姉ちゃん、熱あんのか?」
母さんが潤子のおでこに掌を当てる。
「熱は、なさそうだけど……潤子、牛肉食べる?」
「いらない」
父さんが慌てふためいた。
「救急車を呼ぶか?」
夏子だけが、落ち着いている。
「心配しなくて大丈夫じゃないかな。お父さんもお母さんも経験あるやつだよ。若い頃のあれ」
その言葉に、両親はお互いの顔を見合わせると同時に俯いてしまう。
突然、潤子はモリモリとご飯を食べ出した。みんながほっとしたのも束の間、彼女は「ごちそうさま」とだけ言うと、食器をキッチンへと持っていき、そのまま奥へと消えていく。
残された家族はポカンとした表情を浮かべる。父さんが恐る恐る夏子に尋ねた。
「なあ、夏子。相手は誰か知っているか?」
「尾崎お兄さま。キャンプで一緒になった彼だよ、きっと」
隼人も変に感心している。
「さすが姉ちゃんウォッチャー。と言っても他に男っ気なかったしなー」
母さんがキッチンの方を、心配そうな表情で眺めた。
「あまり思いつめないで欲しいわ……」
自室に戻った潤子は、ジャージ姿で布団の上に仰向けに寝そべりながら、窓の外、夕焼けで赤く染まった街並みを眺めていた。
ポケットからスマホを取り出し、尾崎へメッセージを打ち込もうとするが、指が止まってしまう。何を打てばいいのか、分からなくなった。
「私は橋守を継ぐ。彼は医者になる……」
そう小さく呟いた。橋守を継ぐのを止めて、彼の元へと行くのはどうか。
(最初は満たされても。きっと後悔する……心が死ぬ。自分に嘘をついてまで、そんなことはしたくない)
それでも。彼の元へ行きたい……。
……。
潤子は尾崎にメッセージを打った。指が震えていた。
『卒業するまでは友達を続けて欲しい。その後は、お互いの道を進みましょう』
既読が付いた。いつもはすぐに来る返信が返って来ない。段々と、胸が締め付けられていくような感覚が強くなっていく。
「私、何勝手なことしてるんだ」
ただ、返信の来ないスマホの画面を眺めていた。何分間、そうしていただろうか。ふいに尾崎からメッセージが返ってきた。
たった一言。
『分かった』
それを見た潤子の瞳から、涙が溢れてきた。自分は何を期待していたんだ。彼には彼の道があるというのに。
覚悟していたことだった。それでも、もしかしたらという希望が心の片隅に居座っていた。今は――張り裂けそうになるような鈍い痛みしか感じない。
……橋守を継いで。どこかで誰かとお見合いでもして。婿になってもらって結婚して。子供が出来れば……今日のことも、良い思い出になってくれるのだろうか。
……。
……。
……。
――月明かりに照らされ、潤子は目を薄っすらと開けた。いつの間にか眠っていたらしい。スマホを手に取った。メッセージはあの時のままだ。ため息をつくと、枕元へとそれをそっと置いた。
窓際へ身体を寄せ、外を眺めやる。川の穏やかな流れの中に浮かぶ月が、ゆらゆらと揺れている。無意識の内に、もう一度ため息が漏れた。おじいちゃんがいたら、どんな言葉をかけてくれたのだろうか。
「やり切るしかないか……橋を直して、祭りを……」
尾崎は来てくれるのだろうか。自分の浴衣姿を見て、また前みたいに笑ってくれるだろうか。
首を横に振り、窓のカーテンを閉めた。月明かりは遮られ真っ暗になる。まるで今の自分の、心の中のようだと思った。
「……」
布団へと戻ると、タオルケットをぱさりと被る。気が付かないうちに、潤子は布団の中で静かな寝息を立てていた。




