第三話 台風一過
潤子は朝の四時半に目が覚めた。鳴り響く前の目覚ましのボタンを押す。ジャージから作業着に着替え、リビングに向かった。扉を開けるとエアコンのひんやりとした空気に包まれる。家族全員からお早うの挨拶をされた。
「おはよう……みんな、起きるの本当に早いよね……」
寝るのも早いが。
弟の隼人が、どこか勝ち誇った顔で、からかうような口調で絡んでくる。
「姉ちゃん、びりっけつ。相変わらず寝坊助だな」
「やかましい。暇な中学生とは違うんだから」
中学生になってから、生意気さに磨きがかかった気がする。
「お姉ちゃんは、仕事大変なんだからね!」
妹の夏子だ。相変わらず可愛い。来年、中学生になるが、弟のようにならないことを祈る。
朝食の配膳を手伝いながら、潤子は両親へ顔を向けた。
「第二橋脚の点検、朝のうちにやろうと思ってる。台風の後で心配だから」
「そう。なら私も手伝うわ」
やった。母さんが手伝ってくれる。
「それなら漆喰を持っていったほうがよいぞ」
そう言いながら、おじいちゃんが力強く頷いた。どこかヒビが入ってるということか。
朝食後、母さんと一緒に作業着姿で点検口の扉の前に並んだ。扉を横にスライドさせると、むわっとした熱風と共に、微かな泥の匂いが流れ込んで来る。
「潤子は右側をお願い。私は左から行く。水分補給はこまめにしなさい」
「分かった」
「二人とも気をつけてな」
父さんの声に頷くと、点検口から外へと慎重に下りていく。熱気で汗だくになりながらも、橋脚にしがみつくような格好で移動する。ロープに身体を預けながら壁に足をかけ、目視で石の継ぎ目を確認する。
靴底が石を擦る。慌ててロープに体重を預け、バランスをとると、その軋む感触が腰に伝わった。
チラと母さんの方へと視線を向けた。まるで無重力空間の中を進むように、ロープを操り、ひらりひらりと次々と見て回っている。
「やっぱ凄いや」
気を取り直し、橋脚の石の継ぎ目に足を引っ掛け、ロープに体重を預けながら点検を続けた。
「クラック入ってるな……」
潤子は工具ベルトにぶら下げた袋に入った漆喰をヘラに乗せ、ひび割れた箇所に丁寧に塗り込んで補修していく。途中途中で腰にぶら下げた水筒を手に取り、喉に麦茶を流し込む。
結局、三分の二は母さんが終わらせてしまった。
「へこむわー」
点検口に戻った潤子はヘルメットを外しながらボヤいた。ふいに頭を母さんが優しく撫でてくれた。
「年季が違うからね。潤子は一つずつ丁寧に見ていたでしょ。それって橋守として大事な資質よ」
潤子の頬がにへらと、緩む。こうして一緒に作業した後は、良かったところを必ず褒めてくれる。
「へへ」
「はい、お風呂に行くよ。身体を洗ってあげる。早くしないと学校に遅刻しちゃうわ」
一緒に風呂に入った後、制服に着替えた潤子は元気よく飛び出して行った。
「行ってきます!」
汐待橋から歩いて十分。潮見南高校に着いたのが、始業開始一分前だった。
――一限目の後の休み時間に、智子と可奈が同時に話しかけてきた。
「ねえ、潤子ちゃん。昨日凄かったですね」
「潤、すまない。実は昨日、疑ってしまった」
「一人ずつお願い!」
二人が目を見合わせる。可奈がどうぞと智子にジェスチャーした。
「潤がパパ活してると思って、つい後をつけてしまった。どうか縁を切らないでくれ!」
こういう所は律儀だ。潤子はヒラヒラと手を振った。
「気にしてないよ。よく考えたら、色々と怪しかったよね。隠すようなことじゃないんだけど、働いてるんだ」
すぐに可奈が興味深そうに食いついた。
「橋の作業してましたよね?」
「うん。家業でね。十五歳の元服を迎えたら働くのが江戸時代からの我が家のしきたり。ただ法律の関係で橋の点検作業は十八歳になってからだけど」
高校三年になって、すぐにロープ高所作業の法定講習を受けにいった。
今度は智子が食いつく。
「潤の誕生日って確か四月二日だったよな……もう色々できるのか。それより元服ってなんだよ。バイトで働いてるの?」
「いや、常勤職員で。うちって、社団法人として橋持ってるから」
2008年までは任意団体で活動していて、金の流れが怪しすぎて大変だったと母さんが言ってた。
「幾ら貰えるんですか?」
「常務理事の役が付いて年収三百万くらいかな」
きっちり働いているので、自由時間は無いが。
「まさかの役職付き。安くね?」
「これぐらいみたいだよ。高校生になって、小遣い欲しさに両親に働くって言ったら、その場で職員にされた」
「もしかして、潤子ちゃんがこの高校入ったのって」
「働いても文句言われないから!」
ここは力説しておく所である。進学校なんか行ったらお小遣いゼロだった。後、家から近いのも評価ポイントの一つだ。
チャイムが鳴った。その後も休み時間の度に、可奈と智子の二人は潤子の席にやって来ては遊びに行かせろとせがまれた。放課後、根負けした潤子は二人と一緒に帰路についた。
管理棟の階段を下りると、可奈がカバンから一眼レフを取り出す。
「撮影してもいいですか?」
カメラを取り出してから言うセリフなのかと潤子は思ったが、口に出したのは別の言葉だ。
「いいよ。でも、家族を撮るときは一言断ってね」
「当たり前じゃないですか。そんなの常識ですよ」
カメラをぶら下げた格好の、可奈のドヤ顔とその物言いに少しだけモヤモヤしたのは内緒だ。
「すっごい。橋の中ってこんななんだ」
智子はレンガで囲まれた廊下をスマホを片手にキョロキョロとしながら歩いている。どうやら彼女は動画を撮ってるらしい。
「リビングに入るから一旦、撮影止めて」
そう言いつつ、扉を開けた。中に入ると、おじいちゃんがお茶を飲みながらテレビを観ていた。
「おじいちゃん。友達連れてきた」
「おおー。潤子さんが友達連れてくるのって初めてじゃな。どうも、居候のじぃですじゃ」
やっぱり名前は名乗らない。
「初めまして。可奈です」
「どうもです。智子です」
「ちょっと、待ってなさい」
おじいちゃんは、どこかご機嫌な様子で、キッチンに向かっていくと、ハゼの唐揚げが大量に盛られた皿を持ってきた。
「さっき揚げたばかりじゃ」
潤子はそれには何も言わず、気まずそうな表情で可奈と智子へと視線を向ける。
「これって……いただきます!」
「おおー、いい匂い。おじいちゃん、どうもっす」
二人は割り箸で、唐揚げを次から次へと食べはじめた。
「潤子さん、安心なさい。大事なお友達に、苦手なものは出さんから」
そこも分かるんだ。おじいちゃんの得意げな顔を、潤子はどこか感心した様子で眺めやる。
「「ごちそうさまでした」」
唐揚げは殆ど智子と可奈で食べてしまった。潤子は二人の迫力に遠慮してしまい、結局三つしか食べられなかった。
「良かったら、晩ごはんも食べていきなさい」
両親に無断で勝手なことを言っているが、まあうちの家族なら大歓迎だろう。流石に二人は遠慮がちだったが。
「食べてきなよ。せっかくだし。我が家の夕食は十八時だから、帰りはそんなに遅くはならないよ」
潤子からもお誘いの言葉をもらった二人は、どこか嬉しそうに頷いた。
「おじいちゃん、部屋に行ってるね」
「はいよ。お二人さんも、我が家だと思って寛いでくだされ」
可奈と智子がおじいちゃんにお辞儀をする。
「優しいおじいちゃんですね」
可奈がしんみりとした声色を漏らした。
「うん。祭りが近くになると、ふらっとここで寝泊まりして、終わると帰ってくんだけどね。本当のおじいちゃんは、市内のアパートでおばあちゃんと暮らしてる」
潤子のその言葉に、どこか驚いた様子の智子だった。
「へー。潤の本当のおじいちゃんじゃないんだ」




