第二話 橋脚の点検
突然、ゴウという音と共に風が潤子の全身を駆け抜け、点検口の中へと押し戻されそうになる。両手でしっかりとロープを握った。
「行ってくる。父さん。サブウィンチ、よろしくね」
そう言って、天井のウィンチレバーを指し示す。父は軽く頷いた。
「ああ、気をつけてな」
潤子は息を吸い込むと、点検口の外側へ背中を向け、足を床の縁に掛ける。そして外壁を両足で交互に蹴りながら一段下まで降りた。上を向くと父が操作レバー片手に下を覗き込んでいる。おもむろにサムズアップされた。
肩に担いでいたブラシを腰ベルトのフックへ引っ掛ける。二本のロープを交互に操り、石の継ぎ目に置いたつま先に重心を乗せ、橋脚にしがみつきながら回り込む。橋桁の斜めから侵入してくる雨が、容赦なく潤子の身体を打ちつける。しっかりとロープを握り直した。気を抜くと足元を持ってかれて、滑り落ちそうになる。
顔を袖で拭った後に、ドレン穴を覗き込んだ。
「あっぶな」
首にかけたスマホに向かって叫んだ。
「父さん、聞こえる? 落とすよ」
『船の通過なし、いいぞ』
ブラシを腰ベルトから引き抜き、そのまま穴に突っ込みゴシゴシと小気味よくこする。突っ込んだブラシを思いっ切り引っこ抜くと、泥に絡んだ木の葉がどっと押し出された。その奥から細い枝が転がり落ちる。
再び、胸元のスマホへ話しかける。
「終わったよ。フラッシュして」
『了解』
しばらくするとバシャーという音と共に、ドレン穴から水が流れ落ちてきた。
再度、穴の中を確認する。潤子は満足そうに頷いた。
「終わった」
『はいよ』
二本のロープが同時にゆっくりと巻き取られていく。それに合わせて潤子もゆっくりと移動する。
ふと、橋の上に目をやった潤子は、ピシリと凍り付いた。
「あの二人に作業着姿、見られちゃったよ……」
智子と可奈が驚いた様子で潤子の方を向いていた。雨が降り出したことも気にせずに、まるでロックオンした砲台のごとく、ずっと視線が追いかけてくる。
潤子は顔を赤らめながらも、二人に向かってやけくそでブラシを振った。彼女らが大きく手を振り返してくる。
「冷たっ!」
顔にブラシから飛び散った泥水がかかった。点検口へ上がり込むと扉を閉め、工具ベルトからロープを外す。
「友達がいた。ちょっと話してくる」
「ああ。今日みたいな日は危ないから、早く帰ってもらいなさい」
作業着姿のままで管理棟を出ると、しならせた折り畳み傘を差した二人が、まだその場に残っていた。
「智子、可奈。危ないから早く家に帰って……それから、このことは秘密にしてほしい……ああ恥ずかし」
智子が何か言う前に口を開いたのは、目をキラキラさせた可奈だった。
「潤子ちゃん、超カッコよかったですよ。ロープ使ってスイーって移動するところなんか、ジンジン来ちゃいました」
智子も続いた。
「なんかアクションスターみたいじゃん。目が離せなかった。で、何やってたんだ?」
潤子は二人の態度に戸惑いを見せる。
「台風が来るから家……橋の点検してた。本当に秘密にしておいてね。約束だよ。それじゃあ、またね!」
「了解だぜ」
「潤子ちゃん。今度家に招待してくださいね」
可奈が構造物オタであるということを、すっかり忘れていた。
二人を見送った潤子は管理棟から、再び橋桁の中へと潜り込んでいった。リビングへと戻ると、おじいちゃんが労いの言葉をかけてくれた。
「お疲れさん。大変じゃっただろう。京子さんが、お風呂に入りなさいって言っておったぞ」
「分かったって、母さんが来たらそう伝えて」
「あいよ」
廊下を奥へと進むと、古い木の戸が見える。戸を横に開けた。
作業着を脱ぎ捨て、浴場へと続くガラス戸を開ける。タイル張りの浴室の先に、湯気の立つ、大きな浴槽と下半分が曇りガラスとなったアーチ型の全面窓。その先に瀬戸内海に浮かぶ島々が見える。
潤子は身体をさっと洗うと浴槽に飛び込んだ。冷え切った身体が熱いお湯に晒されて、思わず身震いした。
「本当に、ひいおじいちゃんには感謝しかないわー」
昭和の時代、橋の居住区を大改装する時に、大浴場を作ると言って譲らなかったらしい。当時の役人は目を回したらしいが。
「やっぱり仕事の後の風呂はいいねー」
潤子はご機嫌で、バスアロマの穏やかな香りの立つ湯に浸かりながら、遠くの曇り空を眺めていた。
風呂から上がり、小豆色のジャージに着替えると、すぐにリビングへと戻った。おじいちゃんの隣に座り、ドライヤーで肩まで伸びた髪を乾かす。おじいちゃんはマジマジと潤子の髪を見上げるような姿勢になった。
「しっかし、便利な世の中だのう。昔は縁側で髪を垂らして、髪干ししてたのにのう」
潤子は不思議そうな顔を、おじいちゃんに向ける。
「いつも思うんだけど。おじいちゃん、本当にいつの時代の人なの?」
「いつも言っておるが。この橋が出来る前の時代からおったぞ」
飄々と潤子の問いに答える。どこか、掴みどころがない。
「橋祭りが終わったら、また帰るの? いっそのこと、ずっとここにいたらどう?」
「そう言ってもらえて嬉しいんじゃが。帰らにゃならん家があるしな」
このおじいちゃんは、潤子が物心ついたときから祭りの前にふらりと現れて、一ヶ月くらい滞在していく。祭りが終わるといつの間にかいなくなる。最近は父に近くまで送ってもらっているが。名前を聞いても「忘れた」としか言わないので、仕方なくおじいちゃんと呼んでいる。
父さんも母さんも、まるで本当の家族のように受け入れているのが不思議だった。助言は的確で、橋にまつわる面白い話をいつも聞かせてくれるので、潤子にとっても実は嬉しかったりする。
夜になり、父さん、母さん、弟、妹、そしておじいちゃんの一同が夕食のためにリビングに集まった。テーブルの上にはハゼの唐揚げ、クロダイの刺身、シジミのみそ汁と毎度のことながらシーフードのオンパレードだ。
『台風15号は本州、四国に上陸し――』
アナウンサーが、天気図を解説していた。ゴゥ、という音が響く度に天井がグラグラと揺れる。橋が心配だ。
「心配せんでも大丈夫じゃよ。今晩くらいなら問題ない」
おじいちゃんは、刺身をつまみに、日本酒を煽りながらそう言った。不思議とおじいちゃんの言うことは外れない。本当に橋の神みたいだ。
「それなら、今晩はゆっくり寝られそうですね」
母さんがハゼの唐揚げを箸でつまみながら、安心したように呟く。この家族、こうやってみんなで集まるのは好きなくせに、あまり浮いた会話が出てない。だけど不思議と居心地は悪くなかった。
潤子は自室に戻ると、LED照明をつけた。とたんに白い光が部屋を明るく照らす。雨戸が風と雨でガンガンと叩かれていた。
「明日も点検かぁ……」
そうボヤキながら机の前の椅子へと腰を下ろす。パソコンで、ネットニュース動画を流しながら教科書を開く。そしていつも通り、部屋の電気を消すと二十一時半にジャージ姿のまま布団に潜り込んだ。
さっき見たニュースの情報だと台風は瀬戸内海の丁度ど真ん中を通っているらしい。風で看板が派手に吹き飛ばされた映像が頭に思い浮かんだ。明日のことを考えると、気が重くなった。




