第二十一話 交渉
キャンプ二日目の金曜日。四時半に潤子は目が覚めた。可奈と智子はシュラフの中で幸せそうに寝息を立てている。
そっとバンガローのドアを開けると、高原特有の新鮮な冷気が舞い込んできた。朝霧が日の光を受けて淡い金色に輝いている。彼女は寝ぼけ眼で離れにある洗面所へと向かった。
洗面所で顔を洗い、髪を整える。網戸の張った扉を開けて外へ出ると、上の方の広場で尾崎が切り株の椅子に座り、物思いに沈んでいた。
坂道を上り、彼の元へと歩いていく。
「お早う。よく……眠れた顔じゃないね」
その目は真っ赤で、隈が見えた。
「……少しだけ眠れなかったから、考え事をしてたんだ」
尾崎の隣にある切り株へ腰を下ろす。彼は前を向いたまま、口を開いた。
「……やっぱり橋守のこと、諦めきれなかった。往生際が悪いよな」
視線を隣に向けると、彼の横顔があった。その寝不足の表情に反して、声は落ち着いていた。
「そっか」
潤子はそれだけ言うと視線を前へと戻し、ただ遠くの湖を見続けた。その先で、靄の立つ穏やかな湖面が、朝日を受けて薄ぼんやりと揺れている。
二人は眼下に広がる湖を、暫くの間、漫然と眺めていた。やがて潤子はすっと立ち上がると、尾崎に顔を向けた。
「朝ご飯、作ってくる。できたら声かけるから」
みんなと朝食を食べ、後片付けを済ませた潤子は、父さんと尾崎と一緒に、ミニバンに乗り込んだ。
「行ってきます」
助手席に乗り込んだ彼女は、窓からみんなに向かって手を振る。車は町の役所へと、キャンプ場を後にした。
ハンドルを握る父さんも、バックミラーに映る尾崎の顔もどこか緊張気味だ。潤子は二人に声をかけた。
「なんとかなるよ。資料も揃えてきたし」
声色は微かに緊張を孕んでいる。まるで自分自身に言い聞かせているように思えた。
スマホで里逢橋の伝承に関する文献を確認する。可奈が『古き善きものを愛でる会』の理事である教授に頼んで、送ってもらったものだ。喜んで送ってくれたとのこと。
橋の神様と呼ばれた賢人から教えを請い、当時の最新鋭技術をもって建立したとコメントがある。そして、もしそれが本当なら、歴史的に見ても学術的な観点からも、とても珍しい橋とのことだ。賢人って、絶対におじいちゃんだ。
他にも説得のための参考情報として、古い橋を修復した事例も記載してくれている。これも、許可を得るための説得材料に使えるかもしれない。
「潤子。タブレットも見てごらん」
父さんが運転しながら、席の横に置いてあるタブレットに目線だけをチラリと移す。潤子はそれを拾い上げた。
「なにこれ、凄い」
そこには必要な資材や重機の種類、かかる費用見積もり、工程表のファイルが並んでいた。
「昨日、京子があちこちに連絡を取りながら作ったやつだよ」
母さん……目が赤かったし、きっと寝ずに作ったんだ。無駄にはできない。
山を下りて十分ぐらい車を走らせたところに役所はあった。駐車場にミニバンを停めて、その中へと入る。年季を感じさせる応接室に現れたのは、カーキー色の作業着姿の人の良さそうなおじさんだった。
「初めまして。建設経済課の課長をしております谷です。あなたが連絡をくれた、えっと」
「お会いできてとても嬉しいです。社団法人汐待橋守組合の専務理事を務めます橋守です」
さすが外務畑の元キャリア官僚。父さんは柔和な笑みと、はっきりとした親しみやすい声で谷に応対している。
汐待橋守組合という名称は、初代橋守が命名してから、一度も変えていないんだっけ。そんなことを思いながら自己紹介をした。
「常務理事の橋守です」
初めて人前で役職を名乗った。そんなにびっくりしないでくれ。
最後に尾崎が礼儀正しく会釈する。
「尾崎です。よろしくお願いします」
全員の挨拶が終わるや否や、すぐに橋の補修についての話し合いとなった。父さんがタブレットを取り出し、可奈から送ってもらった資料を見せながら、歴史的価値のある貴重なものであることを語っていく。
さらに父さんは、母さんが作成した修繕プランを見せ、修繕も現実的であることを示した。その上で汐待橋守組合は、古橋の維持管理に関してはプロの集団であること、資金はクラファンで集めるから町に負担はかけないこと、修繕した暁には町興しのシンボルとして大々的に宣伝できることを淀みなく説明をした。
谷は町興しの説明をされた所でぱっと顔を明るくしたが、すぐに切れた電球のように暗い顔になった。
「とてもありがたい話なのですがね。民間が公共の橋を勝手に補修した前例がないんですよ。許可には時間を頂くことになるかと」
潤子はすかさずスマホをタップして、里逢橋の現状を映した写真を見せる。
「それでは間に合わないんです。現場を見ましたが、およそ一ヶ月以内に崩落する恐れがあります。それに一般市民がボランティア補修の特例を使った活動もあります。前例ならありますよ」
谷は画面を凝視しつつ、唸った。
「うーん……それならなおさらですね。万が一、工事中に崩落して怪我人や死人が出たら、町として責任が取れないんですよ。それでも突き上げをくらうのは町でして」
それには尾崎が答える。
「今、この瞬間も崩落寸前ですよね? 私たちが『直したい』と申請したのに、町が却下したとします。その後で橋が崩れて誰かが怪我をしたり、死んだりしたら……世間の人は、誰を追及すると思いますか?」
おお。ディベートで鍛えたという、その話法は効果てきめんだ。谷の顔が真っ青になる。
「わ、分かりました。町長に確認を取りますから。そのままお待ちください」
そう言うと、谷はそそくさと応接室を後にする。待つこと十分。ノックの後、再び応接室のドアが開いた。
細身の鋭い目つきをした初老の男性が入ってきた。彼は「失礼します」と言いながら谷と一緒にソファへ腰を下ろした。
「私が奥潮見町の町長、里山です。谷から話を聞きました。申し出はありがたいのですが、やはり検討には、時間を頂きたいと……」
そこで里山の視線が尾崎に釘付けになった。心なしか、わずかに震えている。
「……待て。君、潮見総合病院の理事長の息子さんだね?」
尾崎がその鋭い眼光に、ギョッとした表情をみせた。
「え? あ、はい。そうですけど……」
「やはりそうでしたか! 確か、わが町の診療所の開所式にお父上の隣にいましたよね? 町民全員、大変感謝をしていますと、どうぞお父上にお伝えください」
言い終わった里山は、スッと目を細め、谷を見据えた。
「谷君。君は『前例がない』とか『事故が起きたら』とか、自分の保身ばかりだな」
「へっ!?」
「もし、彼らの申し出を断って、この町の大切な医療体制に万が一のことがあったら、君はどう責任を取るつもりかね!?」
「 い、医療? 我々は橋の話をしてたとばかり……」
今度は里山が谷をはっきりと睨みつける。
「物事を大局で見なさい。金は出さない、人も出さない。それでいて許可も出さないなどと。それじゃあ我々は何のために、ここにいるのかね。見せてもらった修繕計画書だって、なんら不備もない。むしろよくここまで練り込んだと思うレベルだ」
その後、彼は尾崎にそれはそれは素晴らしい笑みを見せた。まるで怪人百面相だ。
「 お父上には『町は全面的に協力する』とお伝えしてください。橋の修繕のための諸々の許可は今すぐ出します。ほら谷君、さっさと許可証を発行しなさい。必要なの全部!」
ミニバンの中で、潤子は許可証の覚え書きの束を抱えていた。正式な許可証は改めて渡すとのことだった。
「道路占有許可に河川占有許可に橋の修繕工事の許可に……いったい何枚あるんだろ」
後部座席で、尾崎は悔しそうに俯きながら、ただ唸っている。
「くそっ、くそっ……」
その様子を見かねた父さんが、彼を諭すように運転席から話かけた。
「町長を引っ張りだしたのは、間違いなく君の手柄だよ。君が来てくれたお陰で橋を助けることができる。本当にありがとう」
「俺は何もしてません。親父が強かっただけです」
潤子が後ろを振り返る。
「そんなことないよ。尾崎くん、ありがとう。恩に着る。このことは絶対に忘れないから」
潤子と顔を上げた尾崎の目が合った。彼女の柔らかい微笑みに、彼は顔を真っ赤にして、再び俯いたのだった。




