第十九話 みんなの申し出
一億円。潤子にとってそれは雲の上に浮かんでいるような、どこか現実味のない数字のように感じた。あきらめたら終わりだ。何か手はあるはずだ。
努めて優しい顔を作り、おじいちゃんに向かって微笑んで見せた。
「おじいちゃん。安心して。私たちが必ず何とかしてみせるから」
空手形もいいところだ。だが嘘から出た真という言葉もある。きっとなんとかなる。
おじいちゃんの顔色が、ほんの少し良くなったように感じた。
「……恩にきる。なあに大丈夫じゃよ。上手くいく」
その言葉に、心を覆う雨雲のような憂いが晴れていくのが分かった。おじいちゃんの予言めいた言葉は、今まで一度も外したことがなかったから。
川のせせらぎが、揺れ動く木漏れ日の間を縫うように心地よく耳に響く。
父さんは、いつも通りの穏やかな顔に戻ると、同じように隣にしゃがみ込んだ。
「おじいさん、また来ます。果報を昼寝でもして待っててください」
潤子はリュックからタッパーを取り出した。中にはおにぎりが沢山入っている。
「おじいちゃん、これ食べて元気だして。全部食べてね」
おじいちゃんのために握ったものだ。
「すまんのう。ありがたく頂く」
その様子を父さんが微笑みながら見ている。軽く頷いたかと思うとすっと立ち上がり、ぐるりと周りを見渡しながら言った。
「とにかく一度、戻ろう」
潤子たちは元来た道を戻り、やがてミニバンのところに辿り着いた。全員がミニバンに乗り込むと、バンガローを目指し、車が動き出す。
父さんがハンドルを握りながら、潤子に話しかけた。
「さっきも言った通り、役場に行って、せめて緊急補修の許可を貰ってこようと思う。潤子も来るか?」
「うん、行く」
母さんは、タブレットを忙しなく操作している。
「私は取引先を当たって、補修資材をなんとか確保できないか、交渉してみるわ」
後ろにいる可奈が声を上げた。
「あの……私、教授の先生と連絡を取ってみます。伝承は本当でしたし、歴史的価値があると思うんです」
バックミラーに、父さんの嬉しそうな目元が映る。
「それは助かる。権威のお墨付きがあると、役所の人たちも動きやすくなるだろうから」
隣の智子がビデオカメラを構えた。
「じゃあ私はこれで橋の動画を撮ってアップする。これでも結構フォロワーいるから。みんなに現状を知って貰うだけでも何か進むんじゃないかな」
夏子と隼人の元気な声が、背後から聞こえた。
「私はクラファンの準備をする。実際には動くのはお姉ちゃんたちだけど。未成年なのが本当にもどかしいね。お兄ちゃんにも手伝ってもらうから、よろしく」
「おう、任せとけ」
クラファンはクラウド・ファンディングの略だ。プロジェクトを立ち上げて、ネット上で出資を募る。これで小学生だというのが末恐ろしい。彼女の行く末が心配……いや将来が楽しみだ。
潤子はここで考えた。自分には何が出来るのかを。出来ること……やるか。
「智子。動画のことで相談があるんだ。私を撮って欲しい」
智子が、まるで天変地異にでも遭遇したような顔を見せた。
「ちょ、潤。いいのか? 動画撮ったら絶交じゃなかったっけ」
そこまで言った覚えはない。勝手にアップしたら絶交だと伝えただけだ。
「きっとお金が沢山必要になる。夏子の計画するクラファンへの出資を……私が動画で直接お願いする」
言った後、心臓がドキドキとやたら煩かった。動画に撮られている自分を想像するだけで、顔が真っ赤になる。変な汗まで出てきた。
「よっしゃ。任せろ。一番映える角度から潤を撮ってやるから」
智子のやる気に満ちた声。
可奈がニッコリと笑った。
「なら、橋の歴史資料もまとめますね。写真もバシバシ撮ります。クラファンのサイトに一緒に載せましょう。その価値を知れば、協力する人が増えるかもしれないですし」
こういう時の可奈は無敵だ。本当に頼もしい限りだ。
みんなの力強い声を聞いていると、なんだか心が軽くなった。
「みんなありがとう。私のワガママに付き合ってもらって」
後ろから、どこか格好つけたようなハスキーな声が耳に響く。
「一人で抱えすぎなんだよ。それにおじいちゃんがいなくなって寂しいのは、姉ちゃん一人だけじゃないんだからな」
潤子は後ろを振り返り、弟の顔をマジマジと見つめる。まだ幼さを残しつつも、なんだか男らしく見えた。
「なんだよ」
「いや、格好良くなったなって思って。可奈がベタ惚れするわけだ」
隼人と可奈の顔が途端に茹で上がった。二人の関係は、まだまだ発展途上らしい。
バンガローに着いた頃には夕方になっていた。山の奥に沈みゆく夕日が、湖を黄金色に照らしている。風が湖にさざ波を作り、水面に反射した光もキラキラと揺らめいていた。
風が潤子の横を駆け抜ける。高原特有の涼気が心地よかった。
母さんが手を叩き、みんなの注目を集めた。
「はい。ご飯作るから全員手伝ってくださいね」
潤子は大量の米を大きなボウルに入れると、両手で抱え炊事場のある坂道を登っていった。水道から水が流れる音が聞こえる。誰か先客がいるようだ。若い男性だった。
「今晩はー」
元気に挨拶をし、そのまま固まってしまった。振り向いたのが尾崎だったから。
「……」
「……」
勢いよく流れる水の音だけが響く。蛇口の下に置いた鍋から水が溢れ出している。その顔は真っ赤を通り越して、深紅に染まっていた。そして鍋の取っ手を握り締めた彼は、蛇口を閉めるのも忘れ、炊事場の反対側の出口へと駆け出した。
「尾崎くん、待って!」
その言葉に、彼はまるで麻痺の魔法でもかけられたかのように、その場にピタリと立ち止まった。
変な刺激を与えないように、蛇口の栓を閉めながら、彼に向かってニッコリと微笑んでみせた。
「尾崎くんもキャンプに来てたんだ。これからご飯?」
尾崎はその場で溶けてしまうような、小さな声で呟いた。
「……お、お湯沸かしてパックご飯とレトルトカレー温めようと思ってた」
「誰と来たの?」
「……俺一人で来た。ほ、他に誰もいない」
ソロキャンプだろうか。一応、誘ってみるか。
「ねえ、もし良かったらだけど。一緒にご飯食べない? 一人分余っちゃってさ」
おじいちゃんの分だ。彼を誘わなくても誰かが食べただろうが、丁度良かったのかも。
「俺なんかが行ったら迷惑だろ?」
「そんなことないよ。うちの家族、賑やかな方が好きだし」
「……だってお前、彼氏いるじゃん」
その言葉に、全身が強ばった。
「え……なんのこと?」
尾崎はしまったという顔を見せている。
「あ、いや……偶然、橋を散歩しているときに、お前の弟が『姉ちゃんは彼氏と一緒の部屋に泊まったら』とか言ったのが聞こえて」
彼に言われたことをそのまま想像してしまい、潤子の顔がみるみるうちに真っ赤になった。そういえば弟にそんなことを言われて、頭にきて、点検用ハンマー片手に追いかけ回した記憶がある。
「それ、弟の冗談だよ。どこで聞いたの?」
「橋の上。お前の弟が山田に話していた」
山田? ああ可奈か。弟め、あんにゃろう。
「デタラメだよ、それ。本当に弟の冗談だから。一緒に来たら分かる」
それよりも、尾崎が橋の上に来ていたのか。もしかしたら彼に潤子スペシャル3号を見られたのか。どこかの洞窟にでも入りたい。
「その前にお米研いじゃうから、ちょっと待ってて」
「あ、俺がやるよ」
「じゃあ、半分お願い。その鍋使える?」
隣で米を研ぐ尾崎の手は、どこか震えているように見える。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「あ、ああ。こうした方が米が美味くなるんだ。うちのばあちゃんから教えてもらった」
そういうものなのか。潤子は首を傾げたが、おばあちゃん直伝の技なら、そうなんだろうなとも思った。




