六
せせらぎにたどり着いた男は、つっ伏すようにして水面に顔を浸す。蓬髪が、伸び放題の髭が、邪魔をして意図しただけの水が喉を通らない。それでも男は、必死に乾きを癒そうとしていた。
「おいっ! そこのじじい、どこから来た!」
馬で通りかかった三人の兵士が、男を見とがめて声を上げる。黒っぽいサーコートの膨らみ具合をみると、その下には鎖帷子でも着込んでいるようだ。喉を潤すのに夢中で振り向きもしない男に、真ん中の兵士が叫んだ。
「返事をせんか!」
望むだけの水を口にした男がゆるゆると顔を上げてふりかえる。その眼には兵士たちが期待した畏れも謹みもない。跪いたまま、ただ馬上を見上げるだけの男に焦れ、兵士のひとりが馬を降りて歩み寄る。抜いた剣尖を顎先に突きつけられても男は顔色ひとつ変えずにいた。それが一層、兵士たちの癇に障った。
「なんとか言え! きさま、物乞いか?」
「いや、見ろ、その外套を。薄汚れてはいるが南の国のものじゃないか? 密偵かもしれんぞ」
もうひとりの兵士が馬から下りてきて言った。
「引っ捕えるか」
「そんな汚いじじいを城に連れ帰るのか? 流行り病でも持ってたらどうする。例え密偵だとしても首を刎ねちまえば済む話だろうが」
馬に残った兵士が吐き捨てる。
「それもそうだな」
剣を抜いていた兵士が、大きくそれを振りかぶった時、川の対岸から声が上がった。
「お待ち下さい!」
ついさっき兵士たちが渡ってきた橋の上を女が駆けてくる。岸辺にしゃがみこんだ男を庇うようにして立った。年の頃は二十代半ばくらいか、ブルネットの長い髪をスカーフで包んでいる。煤で汚れてはいるが整った顔立ちをしており、くっきりとした輪郭の太い眉は、強い意思を示すようだ。
「この者はわたくしの叔父です。南の国に争いの時が起き、逃れてくるのだと便りを受け取っておりました」
「なんだ、鍛冶屋の女か。だが、その外套をどう説明する。南の国の密偵だとしたら捨て置けんぞ」
「争いの時では、騎士も兵士も、そして多くの民も死んだと聞きます。着の身着のままで国を逃げ出した叔父です。討死した兵士から剥ぎ取ってきたのでしょう。そうよね?」
女の問い掛けに男はゆっくり頷いた。実際、戦火の南の国から逃げてくる者は多い。しかし、ここまでの道程には険しい山々や砂漠が障害となって立ち塞がる。やっと北の国の市壁を目前にしても森で野盗に殺される者も少なくなかった。
「ふん、そんな年寄りでは山越えもなるまい。見逃してやるわ、その代わり――」
馬上の兵士はランス(騎槍)を鞍から抜いて投げ出す。
「それを鍛えておけ」
「名高き槍騎士様に感謝申し上げます」
兵士たちは砂塵を巻き上げて走り去っていった。
「よかったわね、わたしはネリ。聞いていたと思うけど、そこの鍛冶屋の娘よ。あなた、名前は?」
男は手近にあった小枝を取り、かつて呼ばれた名前、マテウス と地面に書く。それはネリの知らない文字だった。
「ごめんなさい、読めないわ。口が聞けないのね、歩ける?」
ネリはマテウスの眼を見つめた。灰色の髪と髭に覆われて表情はつかみにくいが正気を失っている様子はない。赤銅色に焼けた肌が眉間の皺を際立たせてはいるが老人というほどでもないように思えた。穏やかだがどこか哀しみを湛えたような瞳にネリは引き込まれそうになる。マテウスはよろよろと立ち上がった。
「こう言っては失礼だけど、その歳では兵士じゃないわよね」
一瞬、怪訝そうにネリを見たマテウスはふるふると顔を振った。
「わたしは人殺しを生業とするような連中が大嫌いなの、お腹が空いているのでしょう? 兵士じゃないのなら食べさせてあげる。もっともパンとじゃがいもしかないけどね。あそこよ」
ネリは石瓦と壁の間から煙のあがる建物を指差して言った。
「ネリ、誰なんだ、そいつは」
古い石造りの家には四人の男がいた。三人が踏みふいごで風を送り、一番年嵩の男が炉で地金を焼いている。声を上げたのはその男だった。
「行き倒れよ、川でエミール公の兵士たちに殺されかけていたのを助けてあげたの」
「物好きなこったな」
男は意識を地金に戻した。
ネリはマテウスを作業場奥の暖炉のある部屋に案内する。ふかし芋と黒パンが使い古した木のテーブルの上に置かれた。後生大事に担いでいたズタ袋を下ろしマテウスはテーブルに着いた。
「どうぞ召し上がれ」
ネリはあかぎれの目立つ手で食べ物をマテウスのほうに押しやる。作業場では鍛錬が始まったようだ。金床で地金を叩くキンキンという音が響き渡る。マテウスは眼を伏せて手を合わせた。
「えらいわね、お祈りを忘れないなんて」
しばし、もごもごと口を動かしていたマテウスは、重ねていた手をほどくと、いきなりじゃがいもを丸のまま頬張る。忙しなく咀嚼すると嚥下を待たず黒パンに手を伸ばした。水分の少ない黒パンはちぎるのに苦労する。テーブルを見回しナイフがないと知ると成人男子の前腕ほどのパンに食らいついた。
「貴族みたいな食べ方をするのね」
薬指と小指を使うことなく食べるマテウスを見てネリが言った。
「さっきの兵士たちはエミール公の騎馬兵よ。あの川を挟んでオリヴィエ卿と小競り合いを続けているの。エミール公は国王から、オリヴィエ卿は教会からこの土地の領主権を与えられたと言って譲らない」
マテウスは小首を傾げる。「この土地とは?」そう言っているように見えてネリが説明する。
「東の山から流れる川の周辺のこと、海に至るまでの数十キロに街並みが密集しているから税を課すにはうってつけなのよ。最近では川下の新興国までもが領有権争いに首を突っ込んできているわ」
なるほど、とマテウスが頷く。出された食事はほとんどたいらげてしまっていた。
「お陰でこの土地に住むものはふたりの領主と……、ごめんなさい、あなたには関係のないことよね」
ネリが言わんとすることはマテウスにもわかった。そんな暮らしぶりにあってさえ、見ず知らずの者に施しをしようとする彼女の顔が、くだんの王女と重なっていた。




