三
「わたしね、今度お嫁に行くかもしれない。隣村の庄屋の長男が、どこかでわたしを見かけて気にいったみたいなの。母も相手をとても気にいっているわ」
こうして町娘がひとり、森の広場に残るのは五度や六度ではない。髭面と町娘の間に流れるそこはかとない空気を感じとった人々も、話が終わると早々に引き上げて気を利かせてくれるようになっていた。
「そうか、よかったじゃないか。おめでとう」
髭面は木々を見上げたまま答える。もし町娘が彼の正面に回っていたなら、髭面の言葉が額面通りではないことに気づいたはずだ。
「おめでとうって……、それだけ?」
幾度か心が通い合ったという自負は髭面にもある。しかし――
「お似合いじゃないか、君は町の庄屋の娘、その誰かさんも庄屋の世継ぎなんだろう?」
――自分ひとり食べていくのが精一杯の髭面に町娘を引き止めることなどできない。なにより家柄に執着する彼女の両親が許さなかっただろう。
「あなたはそれでいいの?」
「いいも、悪いも――」
「誰かー、助けてー」
苦渋を押し隠し,振り返ろうとした時、馬のいななきと女性の悲鳴が髭面の耳を捉えた。遠乗りに来て、そのまま会合の様子を伺い見ていた王女と従者は、折り悪しく熊の母子の間を通ってしまったらしい。気が立った母熊は乗っていた馬ごと従者を襲って絶命させ、そしていま、王女の乗る馬にも迫ろうとしていた。
「いけないっ!」
遠巻きに危機を見つめる人々のなかに若い猟師を見つけると、髭面は一目散に駆け寄る。
「借りるぞ」
髭面は猟師が担いでいた弓を取り矢をつがえた。射てるのか? 俺に。迷いは一瞬だった。髭面の放った矢は母熊の眼を深々と射抜いていた。
地鳴りのような咆哮を上げ、母熊は狂ったようにその場を回り始める。馬上の王女は恐怖で凍りついていた。母熊の残された視界がその姿を捉える。髭面は仕方なく母熊の眉間に狙いを定めた。
「すまん」
立ち上がった母熊は眉間に刺さった矢を前足で抜こうと束の間もがき、そしてそのままどうと倒れた。
「怪我はないか? 母熊と子熊の間にはいっちゃいけないことくらい誰かから聞いていないのか! あんたのせいであの二頭は親なしになっちまったんだぞ」
よもや王女であるなどと思わない髭面は馬上に向かって罵声を浴びせる。帰りかけていた人々が再び集まってきた。
「おい、その女、誰かに似てないか?」
猟師が言った。王女は未だかつて味わったことのない恐怖から立ち直れないでいた。手綱を握る手にも鐙を踏む足にも力がはいらない。ただただ、幼女のように打ち震え、言葉を紡ぐ術さえ忘れていた。
「あれまあ! なんと王女様じゃないですか」
年配の婦人の声が人々の記憶を想起させた。
「ああ、本当だ、王女様だ」
「なんで、こんなところに?」
「おい、まずいんじゃないか?」
状況を理解した人々は、禁じられた集会に参加していた我が身を案じ始める。
「そのほう、わたしを馬からおろしなさい」
思うように声に力はこもらないが、王女は王族の威厳を取り戻そうとしていた。
「俺……、いや、わたしに申されたのですか?」
「他に誰がいるのです」
急いで家路につく人々はひとり減りふたり減りで、残ったのは髭面と町娘だけになっていた。
「わかりました」
髭面は王女の乗った馬を昨日切り倒したばかりの切り株のところまで連れていく。王女の足を鐙から引き抜くと、その身体を抱きかかえるようにして馬から降ろしてやった。
「お付きのかたは、残念なことでした」
「褒美をつかわします、わたしを宮殿まで送ってください」
髭面は町娘と顔を見合せる。
「ですが、わたしは馬を持っていません」
「この栗毛を使えばよいでしょう」
「そうですか」と言って髭面は栗毛から豪華な装飾が施された馬具を外し始めた。
「なにをしているのです」
「この馬はまだ若い、王女様とわたしを乗せて走らすには負担を減らしてやらねばなりません」
「そなたは、馬の歳がわかるのですか?」
「馬がそう言ってます、馬具は後日、引き取りにこさせてください。さあ」
髭面は裸馬に飛び乗ると、王女に手を伸ばす。
馬がですって? 王女はしばしためらっていたが、やがて髭面の逞しい腕を掴んだ。
「しっかり掴まっていてください。暗くなる前に森を出ないと、またどんな動物に出くわすやもしれません」
髭面は町娘の前で馬を止めて言った。
「君は大丈夫か?」
「ええ、森は慣れているわ。どこが危ないかはようく知ってるつもりよ」
「そうか、じゃあ」
髭面の踵が馬の腹を蹴ると、栗毛は勢いよく走りだす。町娘はその後ろ姿が小さくなるまで見送っていた。




