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最終話











 陸人のピアノ室に、星辰は佇んでいた。


 主のいないピアノは、どこか寂しげに見える。その黒光りするなめらかな胴体を掌で撫でながら、星辰は、自分から逃げた人間に思いを馳せた。


 なぜ、こんなにもこの人間を愛しいと思うのか。


 滾り立つ激情のままに貪り尽くした陸人は、微塵も動かない。ただその褐色のまなざしを天井に向けて、その魂を飛ばしたかのように仰臥している。青ざめたからだのあちこちに散るのは、擦り傷と彼がつけたくちづけの痕と歯形だった。


 かすかに滲んだ血の甘さを噛み締めた。


 星辰の口角に、苦い笑みが刻み込まれる。


 池のほとりで怯えたまなざしが自分を見上げた、十年以上前のあの日。


 今にも涙を流しそうないたいけな瞳。


 幼い身には過ぎただろう、これから先の孤独を思い、遠く輝く花嫁を臨んでいたまなざしに惹かれたのかもしれない。


 哀れな………と。


 同時に、


 愛しい………と。


 壽盡の血を引いていようといまいと、どうでもよかった。


 この腕の中に閉じ込めてしまいたかったのだ。


 その存在のすべてを。


 魂のひとかけまで余すことなく。


 それが望みだった。


 まだ赤子も同然の幼い肉体と魂とを、総て自分のものに。


 かつて失われた、自身の子の身代わりであったろうか。


 妻と子の代わりとして、欲したのか。


 判らない。


 いとけない手が奏でていた、ピアノの音色。


 悲しみに閉ざされていたあの音色を聞いた途端、この少年のことは総て自分が決めると決意したのだ。


 壽盡は容易く許可した。


 互いに互いを見ることに忙しかった新婚のふたりにとって、幼い陸人のことを思い出すことは稀だったからだろう。


 囲い込むのには都合が良かった。


 総てを与え、自由を奪う。


 その褐色の瞳が自分だけを見るように。


 しかし。


 陸人が笑うことはなかった。


 いつも、自分を怯えたように見る。


 かつてはそのまなざしこそが愛しいと感じたのだが、怯えたまなざしの奥に潜められた恐怖が自分に対するものではないのだと理解した途端、胸の奥深くに沸き上がったのは、苛立ちだった。


 そうして、怒りでもあった。


 自分の知らない誰かのために、陸人が自分に向けるものが恐怖以外のなにものでもないのだと。


 憎いと、そう思った。


 しかし、それを表に出すようなことはしなかった。


 自分は、貴なのだ。


 貴の中でもより強大な殷の当主である。


 ちっぽけな人間のこどもに、怒りを向けるなど、愚か以外のなにものでもない。


 そう諌める心は、たしかに血をながしていたというのに、星辰は、目を背けたのだ。


 それは、陸人の初恋を知った時も同様だった。


 自分を見ないまなざしに、どうにかして見えるようにとあがきつづける無様さを嗤いながら、流しつづけた目に見えることのない血はどれほどになったのか。


 彼を苛みつづける心の痛みは、遂に、限界を超えた。


 陸人の怯懦と拒絶とが、星辰の最後の枷を突き崩したのだ。




 何故見ないのだ。


 ただお前のためだけにこんなにも苦しみつづけている私と言う存在を。


 ことばにすれば無様きわまりないにちがいないこの心を思い知らせるには、もはや他の術を思いつかなかった。


 独占欲は執着にまで高まり、遂に、肉欲となってあふれだしたのだ。


 それほどまでに、星辰もまた、疲れきっていた。


 自分の想いを思い知らせたかったのだ。


 それがどれほどまずい行為なのか、わからないはずもない。


 それでも、限界だったのだ。


 通じない心、見ようとしない瞳。


 なにもかもが。


 そうして、取り込んでしまえば、手放せなくなった。


 だから、留学は、星辰にとって許すことのできないものだった。


 どれほど望もうと、泣きわめこうと、手放すつもりなどない。


 陸人がピアニストになりたいと思っていることは知っていたが、不特定多数にあの音色を聞かせることを星辰は本心から願っていなかった。


 聞くのは、自分だけでいい。


 自分が教えられるなら、教師など雇わなかったろう。


 学校になど通わせなかった。


 コンクールになど出すつもりなどなかったのだ。ただ、教師の熱意と、いつもなら何も自分には望まない陸人の希望に折れただけに過ぎなかった。


 それが、こんな結果を招くことになると、星辰は考えもしなかった。


 星辰の爪が伸び、ピアノに食い込んだ。


 そのまま何の躊躇もなく手をひと振りすれば、容易くピアノは砕けちる。


 ピアノのあげた断末魔の響きが、星辰の心の叫びのようだった。


 やがて残響が消え静まり返った室内に、


『いいだろう。逃げるというならそれ相応の覚悟をするがいい』


 聞くものの背筋を粟立たせるような声が波紋を描いた。












 ぼんやりと目を開けると、そこは、見知らぬ場所だった。


 どうして――


 起き上がろうとして、からだが動かないことに気づいた。


 全身に激痛が走る。


 しかしそれよりも何よりも、手が動かないことが、陸人を追い詰めていた。


 まさか、と、思った。


 なぜ。


 なにが起きたのだ。


「気づいたのか」


 ドアが開く音と共に、誰かが入ってきた。


「…………」


 陸人が、男を食い入るように凝視する。


「どうした。まさか私を忘れたとは言わせない」


 クツクツと狂ったような笑いを喉の奥で噛み殺すこの男が、なにをしたのか、陸人は思いだしていた。


 飛行機の中に、陸人は人質の一人として残されていた。


 何がどうなったのかは、わからない。


 ただ、突然の煙と共に、踏み込んできた武装した男たち。


 阿鼻叫喚のどさくさに紛れて、陸人は、手に、痛みを感じていた。


 気がつけば、自分は、死者となって星辰の別荘に閉じ込められていたのだ。


 自分の葬儀のようすを、陸人は、星辰に見せられた。


 嘆き悲しむ姉に連絡を取りたくても、携帯も電話も、パソコンすらもない。


 外部との連絡に、機械は必要ない。


 彼らは、人ではないのだから。


「ふつうに弾くぶんには、大丈夫だそうだ」


 星辰のことばに、陸人が震える。


 そのほかにも、全身、打ち身や、捻挫、脱臼と、骨折がないのが不思議なくらいだった。ただし、両手の腱を傷めていた。


「鬼っ」


 吐き出すような罵りに、星辰が、笑いで答える。


 楽しそうに。


「私のために弾いてくれ。私だけのためにな」


 陸人の嗚咽が、星辰の、狂った笑みを深くする。




 鬼に囚われた少年がひとり、鎖された館で、ピアノを弾く。


 絶望に鎖された旋律に、鬼だけが、楽しそうに、耳をかたむけていた。







 文体、内容共に、微妙な気がしないでもないですが。

 少しでもお楽しみくださると嬉しいです。

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