第8話 拾った日のこと(セドリック視点)
あの手帳を拾った日のことは、たぶん一生忘れない。
閉館の鐘が鳴ったあとの図書館は、静かだった。窓際の席に、革表紙の手帳がぽつんと落ちていた。
拾い上げる前から、誰のものかは分かっていた。
その席には、ついさっきまでエステルが座っていたからだ。
私はその日、書架の陰から、ずっと彼女を見ていた。
……言い訳をさせてほしい。
一か月、昼食を断られ続けていたのだ。荷解き、課題、図書館の返却期限、刺繍の締め切り。断り文句は毎回違っていて、毎回、礼儀正しかった。
礼儀正しく、私を遠ざけていた。
理由が知りたかった。何か私が、彼女の気に障ることをしたのか。それとも、他に好きな男でもできたのか。
後者だったら、どうしようかと思っていた。どうするかは、あまり考えたくなかった。
エステルと初めて会ったのは、十歳のときだ。
王宮の庭で、婚約者として引き合わされた。私は父上に教えられたとおりの笑顔を作り、教えられたとおりの挨拶をした。
王太子というのは、笑顔を作るのが仕事のようなものだ。大人たちはみんな、その笑顔を見て満足そうにうなずいた。
エステルだけが違った。
小さな公爵令嬢は、緊張でがちがちになりながら、ドレスのポケットから紙切れを取り出した。そこには、子どもらしい丸い字で「話題の候補」がびっしりと書いてあった。
天気のこと。庭の花のこと。好きな本のこと。
彼女はそれを真剣な顔で読み上げ、私が答えるたびに、紙に小さく印をつけていった。
そして、全部の話題が終わったあと、紙から顔を上げて、言ったのだ。
――殿下、お疲れなら、笑わなくても大丈夫ですよ。
あのときの気持ちを、今でもうまく言葉にできない。
作った笑顔だと見抜かれたのは、初めてだった。見抜いたうえで、責めるのでもなく、ただ気遣われたのも。
十歳の私は、その場で決めた。
この子と結婚する。誰が何と言っても、この子だけは手放さない、と。
それから七年。
年に数回の茶会で、エステルはいつも礼儀正しく、少しだけ距離を置いていた。私が笑うと、困ったような顔で笑い返した。あの日のように、何かを言ってくれることはなかった。
彼女は、私にあまり期待していないのだと思っていた。
それでも構わなかった。学園に入れば、毎日顔を合わせられる。時間はたっぷりある。少しずつ距離を縮めればいい。
そう思っていたのに、入学したとたん、一か月も避け続けられたのだ。
入学式の朝だって、そうだ。私は講堂の前で、エステルが来るのを待っていた。校門に行けば人だかりができて、彼女と話す時間がなくなると思ったから。
あとで知ったが、校門ではポートマン嬢が転んでいたらしい。
どうでもいい。
手帳を拾った夜、私は自室で表紙を開いた。
見たことのない文字が、びっしりと並んでいた。
最初は暗号かと思った。けれど、すぐに違うと分かった。暗号にしては、あまりにも自然に書かれていたからだ。これは、彼女が日常的に使っている文字だ。
なぜ公爵令嬢が、この国にない文字を使いこなしているのか。
疑問はあったが、それよりも先に、手が動いていた。
同じ形の文字を拾い出し、出現の頻度を数える。数字らしきものと、項目番号らしきものを見つける。日付の一覧表から、月と日を表す文字を割り出す。
彼女の書き方は、驚くほど規則的だった。項目番号、小見出し、期日の一覧。おかげで、ひとつ分かるたびに、次のひとつが芋づる式に解けた。
夜明け前、最初の一文が読めた。
『破滅回避計画書 第一版』
続けて、第一項。
『円満な婚約破棄を目指す』
――ペンを折りそうになった。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、先を読んだ。
読み進めるうちに、事情が分かってきた。
彼女は、未来を知っている。少なくとも、知っていると信じている。その未来では、私が卒業夜会で彼女に婚約破棄を言い渡し、彼女は国を追われる。
だから彼女は、私を避けていた。
他に好きな男ができたわけではなかった。
それが分かったとき、情けないほど安堵した。
そして、計画書の几帳面さに、もう一度惚れ直した。
破滅を避けるために、売上の目標を立てて、移住先を比較検討して、私を避けるための断り文句の在庫まで管理している。
いかにも彼女らしい。十歳のあの日、話題の候補を紙に書いてきた女の子が、そのまま大きくなったようだった。
ただ、一行だけ、どうしても読み流せない文があった。
『期待しない』
第四項の、最後の一行。
彼女は、私に期待しないと決めている。私が最後には彼女を捨てると、信じているから。
夢の中の私がどんな男だったのかは知らない。けれど、その男のせいで、彼女はこの七年間、私に期待しないでいたのかもしれない。
それは、とても腹立たしいことだった。
翌朝、私は赤いインクで、彼女の計画書を添削した。
第一項は却下。第三項の卸値は安すぎる。移住先のルシエラは論外。そして、第四項の最後の一行には、強く異議を申し立てた。
手帳を返すとき、エステルは「中、見ましたか?」と聞いた。
私は「見たことのない文字だった」と答えた。嘘ではない。前日までは、本当に見たことがなかった。
彼女がほっとした顔をしたとき、少しだけ胸が痛んだ。
けれど、彼女は生徒会室に来てくれた。予知夢だと打ち明けてくれた。第一項を、撤回ではなく保留にしてくれた。
保留。
彼女の口からその言葉を聞いたとき、私は声を上げて笑ってしまった。
全部却下されても仕方ないと思っていたのだ。保留なら、まだ書き換えられる。
今、私の机の引き出しには、彼女の計画書を書き写した紙の束がある。
それとは別に、もう一冊、私だけの手帳がある。
ポートマン嬢について調べたことを、書き留めているものだ。
入学式の朝、校門で転んだあと、誰かを待つように周りを見回していたこと。私の好きな茶葉の銘柄を、誰にも聞かずに知っていたこと。王族しか知らないはずの、私の幼い頃の呼び名を口にしかけたこと。
そして、西棟の階段の前で、「イベント」とつぶやいたこと。
彼女も、エステルと同じように何かを知っている。ただし、エステルとはまったく違う目的で。
それから、もうひとつ。
ポートマン男爵家の後ろには、ある有力な貴族の影が見え隠れしている。まだ確証はない。けれど、そちらのほうがよほど厄介かもしれない。
エステルには、まだ言わない。
彼女はただでさえ、破滅に怯えている。確証もないうちから、余計な不安を増やしたくはない。
それに。
私は追記欄の最後に、ひとつ書き足した一行を思い出した。
『偽装の期間は、君が望むまで。
なお、私は延長を希望する。』
彼女は、まだ返事を書いていない。
それでいい。急ぐつもりはない。
彼女が「偽装ですから」と言うたびに、少しずつ書き換えていけばいいのだ。保留の第一項と同じように。
逃がす気は、最初からないのだから。




