第7話 殿下の追記欄
翌日、私は生徒会室でミアの言葉を報告した。
殿下は黙って聞いていた。それから手帳を開き、『第二項 ヒロインには関わらない』の横に、赤字で一行だけ書き足した。
『ポートマン嬢には、引き続き最大限の注意を。こちらでも調べる。』
それきり、その話は終わりになった。
代わりに殿下は、手帳の最後のページを開いた。
「ところで、エステル。新しい項目を追加したいんだけど」
「新しい項目、ですか」
「うん。昨夜、書いておいた」
そこには、見慣れない見出しがあった。
『追記欄 婚約者らしい行動について』
その下に、箇条書きが続いている。
『一、放課後のお茶会 週三回以上
二、互いを名前で呼ぶ
三、手をつなぐ(卒業夜会のダンスの練習を兼ねる)
四、週末に街へ出かける 月二回以上』
私は手帳を見つめた。
もう一度、見つめた。
「……殿下。これのどこが、破滅回避なのでしょう」
「全部だよ」
殿下は涼しい顔で、自分の書いた箇条書きを指でなぞった。
「ポートマン嬢がイベントを起こそうとしているのなら、狙いは私だ。そうだろう?」
「それは、たぶん」
「だったら、私と君の仲が誰の目にも明らかなら、ポートマン嬢の付け入る隙はなくなる。仲睦まじい婚約者を引き裂こうとする者がいれば、悪役になるのはその者のほうだ」
「……」
「つまり、これは偽装だよ。破滅回避のための、仲睦まじい婚約者の偽装」
筋は、通っている。
悔しいことに、毎回ちゃんと筋は通っているのだ。この人の赤字は。
(でも、手をつなぐって)
私の視線が三番目の項目で止まったのを、殿下は見逃さなかった。
「ダンスの練習を兼ねる、と書いてあるだろう? 卒業夜会では、私たちが最初に踊ることになる。今から練習しておいて損はないよ」
「……分かりました。偽装、ですね」
私は黒いペンを取り、追記欄の横に小さく書いた。
『了承。ただし偽装として。』
殿下はそれを見て、なぜか少しだけ目を細めた。
偽装は、その日から始まった。
一、放課後のお茶会。
これは問題なかった。もともと毎日、生徒会室で紅茶を飲みながら計画書を書いているのだ。それを「お茶会」と呼べばいいだけの話である。
殿下は律儀に、毎回違う茶葉を用意してきた。私が前に一度だけ好きだと言った、花の香りの紅茶が出てくる日が、だんだん増えていった。
(覚えていたの? 十二歳のときに一度言っただけなのに)
二、互いを名前で呼ぶ。
これが、想像以上に難しかった。
「エステル」
殿下はもともと私を名前で呼んでいるので、何も変わらない。問題は私のほうだ。
「……セ」
「セ?」
「セ、セドリック、さま」
「さまはいらない」
「セドリック……殿下」
「殿下もいらない」
殿下は机に頬杖をついて、じっと私を待っていた。青い瞳が、楽しそうに細められている。
(これは偽装。これは偽装。ただの名前。ただの音)
「……セドリック」
声に出した瞬間、顔から火が出るかと思った。
殿下は一拍だけ黙って、それから、見たことのない顔で笑った。いつもの完璧な笑顔ではなかった。少しだけ照れたような、子どもみたいな顔だった。
「うん。もう一回」
「い、一回で十分です!」
その日、私は手帳の追記欄に、ふるえる字で書いた。
『二、名前で呼ぶ → 実施(一回)』
殿下はその横に、赤字で書き足した。
『一回では偽装にならない。毎日実施のこと。』
三、手をつなぐ。
ダンスの練習は、生徒会室の隣の空き教室で行われた。
「手を」
殿下が右手を差し出した。私はおそるおそる、その上に左手を重ねた。
大きな手だった。剣の稽古をしているのだろう、指の付け根が少しだけ硬い。そして、思っていたよりずっと温かかった。
殿下のもう片方の手が、私の背中にそっと添えられた。
二歩。
計画書で決めた距離よりも、ずっと近い。
「エステル、足が止まっているよ」
「は、はい」
一、二、三。一、二、三。
ゆっくりとしたワルツの足運びを、殿下が数えてくれる。私はそれに合わせて、ぎこちなく足を動かす。
殿下の声が、すぐ頭の上から降ってくる。
(近い。近すぎる。心臓の音、聞こえてないわよね?)
「上手だね」
「お世辞は結構です」
「本心だよ」
殿下はくるりと私を回して、また引き寄せた。
一瞬、殿下の胸に額がぶつかりそうになった。
「……偽装、ですから」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。
殿下の足が、ほんの少しだけ止まった。
「うん。偽装だね」
穏やかな声だった。いつもと変わらない声のはずなのに、なぜか、少しだけ寂しそうに聞こえた。
(期待しない。第四項)
私は心の中で唱えた。
この手が温かいのも、名前を呼ぶと笑ってくれるのも、全部、破滅回避のための偽装だ。殿下は優しいから、私の計画に付き合ってくれているだけ。
ゲームの殿下は、最後にエステルを見下ろして言うのだ。君には最初から、何の期待もしていなかった、と。
だから私も、期待しない。
それなのに、練習が終わって手が離れたとき、指先がひどく寒く感じた。
その夜、寮の自室で手帳を開くと、追記欄の一番下に、見覚えのない赤字が増えていた。
いつの間に書いたのだろう。練習のあと、手帳を返してもらったときには、なかったはずなのに。
『五、偽装の期間は、君が望むまで。
なお、私は延長を希望する。』
私は手帳を閉じて、枕に顔をうずめた。
(延長って、何の延長よ)
返事は、まだ書けなかった。




