第6話 イベント、ことごとく不発
ゲームの中で、エステルはヒロインに三つの大きな嫌がらせをする。
ひとつ目は、お茶会でヒロインのドレスに紅茶をこぼし、恥をかかせる。
ふたつ目は、ヒロインの教科書を破り捨てる。
みっつ目は、階段からヒロインを突き落とす。
もちろん、今の私はどれもするつもりがない。けれど計画書の赤字には、殿下の几帳面な字でこう書かれていた。
『君がしなくても、君がしたことにされる可能性がある。
各イベントについて、当日の君の所在を証明できるよう準備すること。』
(なるほど、アリバイ)
その発想はなかった。さすがは殿下、と思ってしまったのが少し悔しい。
最初のイベントは、学園主催のお茶会だった。
ゲームでは、エステルがヒロインの隣の席に座り、わざと紅茶のカップを傾ける。
当日、会場に入った私は、自分の席札を見て目を瞬いた。
王妃殿下付きの、年配の女官長の隣だった。
「アシュフォード様。王妃殿下から、あなたのお話をうかがうよう申しつかっておりますのよ」
女官長は柔らかく微笑んだ。
(殿下の仕込みだ)
王妃殿下の側近の隣にいれば、誰も私に手出しはできない。おかしな噂も立てられない。
私は女官長と刺繍の話で盛り上がった。女官長は私のハンカチを三枚も注文してくれた。
会場の反対側で、小さな悲鳴が上がった。
見ると、ミアのドレスに紅茶の染みができていた。ミアは涙目で、何かを訴えるように周囲を見回している。
けれど、ミアの隣に座っていたのは、テーブルマナーの厳しさで有名な老教授だった。
「ポートマン嬢。カップは持ち手を持つものですよ」
老教授の一言で、会場は静まりかえった。ミアは真っ赤になってうつむいた。
ふたつ目のイベントは、教科書だった。
ゲームでは、ヒロインの破られた教科書が、エステルの机の中から見つかる。
その週、殿下の赤字にはこう書かれていた。
『放課後は毎日、生徒会室へ直行すること。寄り道禁止。
なお、君の机には鍵をつけておいた。鍵はこれ。』
手帳には、小さな真鍮の鍵が挟まっていた。
(いつの間に、机に鍵を)
そして、イベントの当日。
ミアの教科書は、確かに破られていた。泣きながら教室に戻ってきたミアは、震える指で私の机を指さした。
「エステル様の机から、紙の切れ端が見えたって、誰かが……」
教室中の視線が、私の机に集まった。
私は黙って鍵を取り出し、引き出しを開けた。
中には、私の教科書と筆箱と刺繍の図案帳しか入っていなかった。
「……鍵が、かかっていたのですか?」
級友の一人がつぶやいた。
「ええ。ここしばらく、物がなくなることが多くて」
嘘ではない。手帳を失くしたばかりだ。
教室の空気が、すうっと変わった。誰かが言った。それなら、誰が教科書を破ったのだろう、と。
ミアは顔をこわばらせて、何も言わずに席に戻った。
結局、破られた教科書は、ミア自身の鞄の底から紙の切れ端が見つかったことで、うやむやになった。
みっつ目は、階段だった。
ゲームの中で、いちばん重いイベントだ。エステルが西棟の大階段からヒロインを突き落とし、ヒロインは足をくじく。これが決定打になって、卒業夜会の断罪につながる。
イベントの前日、私は眠れなかった。
アリバイの準備はしてある。当日の放課後は、殿下と一緒に学園長室へ書類を届けに行く予定だ。学園長という最強の証人がいる。
それでも、怖かった。
もし、ゲームの強制力というものが本当にあったら。どんなに準備をしても、私はあの階段の上に立っているのではないか。
当日の朝、生徒会室で殿下に会うと、殿下は私の顔を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「眠れなかった?」
「……少しだけ」
「西棟の大階段のことなら、心配いらないよ」
殿下は窓の外を指さした。
西棟の大階段は、白い布で覆われていた。周りには木の足場が組まれ、職人たちが行き来している。
「改修工事。来月の予定だったのを、今週に早めてもらった。手すりが古くて危ないと、前から報告が上がっていたからね」
「……工事」
「階段がなければ、突き落としようがないだろう?」
殿下はこともなげに言った。
私は窓に額をつけて、布に覆われた階段を眺めた。
身体から、力が抜けていくのが分かった。
(ああ、もう、この人は)
ゲームの強制力がどうとか、ひとりで眠れずに悩んでいたのが馬鹿みたいだ。階段がなければ、突き落とせない。あまりにも単純で、あまりにも確実だった。
「ありがとうございます、殿下」
「どういたしまして。第二項、順調だね」
殿下は手帳を開いて、イベントの一覧表に赤い丸をつけた。
『階段 → 不発(物理的に)』
その日の帰り道、私は西棟の裏手を通りかかった。
布で覆われた階段の前に、ミアが立っていた。
ひとりだった。足場を見上げ、爪を噛んでいる。
私は思わず物陰に身を寄せた。関わらない、と決めている。このまま引き返そう。
そう思ったとき、ミアの低い声が聞こえた。
「……なんで、イベントが起きないのよ」
息が止まった。
イベント。
この世界の人間が、使う言葉だろうか。
ミアはもう一度階段を睨みつけて、足早に去っていった。
私はしばらく、その場から動けなかった。




