第5話 交換計画書
それから毎日、放課後の生徒会室が、私たちの作戦会議室になった。
私が前日に書いた計画書を持っていく。殿下がそれを読んで、赤字を入れる。私がその赤字に反論を書く。殿下がその反論に、さらに赤字を入れる。
一週間で、手帳の白いページは、もう半分を切っていた。
「エステル、昨日の第三項の件だけど」
「刺繍の卸値の交渉でしたら、言われたとおりにいたしました」
私は胸を張って、今月の売上の記録を差し出した。
殿下の赤字に従って、商会の番頭に値上げを申し入れたのだ。前世の経理の知識を総動員して、原価と手間賃と市場価格を一覧表にまとめ、にこやかに突きつけた。
番頭は青い顔で表を眺めたあと、卸値を一・五倍にすることに同意した。
「素晴らしい。予想以上だ」
殿下は記録に目を通して、満足そうにうなずいた。
それから赤いペンを取り、『第三項 国外逃亡資金を貯める』の見出しに、すっと二重線を引いた。
その上に、几帳面な字で。
『第三項 結婚資金を貯める』
「……殿下」
「何かな」
「逃亡資金です」
「資金の使い道は、計画の進み具合を見て改めて検討するんだろう? 第一項と同じく」
「だからといって、勝手に見出しを変えないでください」
「見出しは保留にしておくよ。私の意見を添えただけ」
(その言い訳、二回目!)
私は黒いペンで二重線を引き直し、元の見出しを書き足した。殿下は楽しそうにそれを眺め、その横に小さく「保留」と書いた。
見出しの欄は、もう線と文字でぐちゃぐちゃだった。
「それから、移住先候補の件」
殿下はページをめくった。
私が書いた『移住先候補』の一覧には、隣国ルシエラに代わって、海沿いの小国や山あいの商業都市の名前が並んでいる。ルシエラを却下されたので、自分で調べ直したのだ。
その一覧の上に、また二重線。
『新婚旅行先候補』
さらに、私が書いた地名の下に、赤字で注釈がついていた。
『海沿いのマリエ:冬は寒いが、夏の夕日が美しい。夏に行こう。
山あいのヴェルデ:温泉がある。秋がいい。
追加:王家の湖の離宮。人目がない。最有力。』
「人目がないって何ですか!」
思わず声が大きくなった。
「静かに過ごせるという意味だよ」
「新婚旅行ではなく、移住です!」
「移住先に、新婚旅行の視点を取り入れるのも悪くないと思うけど」
「取り入れません!」
殿下は肩を震わせて笑っていた。
(この人、絶対に楽しんでる)
十歳のときから知っているはずの殿下が、まるで知らない人に見える。いつも穏やかに微笑んで、私の話に丁寧に相槌を打っていた、あの完璧な王子様はどこへ行ったのだろう。
いや、そもそも、あれが本当の殿下だったのかどうかも分からない。
「それから、第四項」
「まだあるのですか」
「距離の定義を数値で示すように、と書いたよね」
確かに書かれていた。私は昨日、それに答えを書いておいた。
『適切な距離:三歩以上』
その下に、赤字。
『一歩以内を提案する。』
その下に、私の黒字。
『却下します。それは距離ではなく密着です。』
その下に、赤字。
『では二歩で。これ以上は譲れない。』
殿下はその部分を指でとんとんと叩いた。
「二歩で、いいね?」
「……二歩半では」
「二歩」
「…………」
前世の予算交渉でも、ここまで粘り強い相手はいなかった。
私は黙って、黒いペンで小さく「二歩」と書いた。殿下はにっこり笑って、その横に花丸をつけた。
(花丸って。子ども扱い?)
腹が立つのに、なぜか顔が熱くなる。私は手帳を閉じて、紅茶を一気に飲み干した。
殿下を避けないこと、という条件を守るようになってから、学園での私たちの扱いは、目に見えて変わった。
「エステル様、今日も生徒会室ですの?」
「殿下と毎日、何を話していらっしゃるの?」
級友の令嬢たちが、きらきらした目で詰め寄ってくる。
「お仕事の、お手伝いを少し」
「まあ、婚約者として殿下を支えていらっしゃるのね」
「素敵ですわ」
(違うの。破滅を避ける相談をしてるだけなの)
本当のことを言えるはずもなく、私は曖昧に笑ってごまかした。
ふと、教室の後ろからの視線を感じた。
振り返ると、ミア・ポートマンがこちらを見ていた。
蜂蜜色の髪に、大きな瞳。ゲームのパッケージで見たとおりの、守ってあげたくなるような可憐な少女だ。
その瞳が、ひどく冷たかった。
目が合った瞬間、ミアはぱっと笑顔になって、軽く会釈をした。私も会釈を返した。
それだけだった。
それだけなのに、背筋がうっすらと寒くなった。
(……気のせい、よね)
計画書の第二項。ヒロインには関わらない。
私は前を向いて、次の授業の教科書を開いた。




