第3話 赤字で返ってきました
その夜、私はほとんど眠れなかった。
寮の門限を過ぎていたから、図書館へ探しに戻ることもできない。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、自分に言い聞かせた。
(大丈夫。日本語で書いてあるんだから)
誰かに拾われたとしても、中身は読めない。見たこともない文字が並んだ、ただの手帳だ。せいぜい、変わった模様の落書き帳だと思われるくらいだろう。
だから、大丈夫。
……大丈夫なはずなのに、胸のざわつきが収まらない。
あの手帳には、私の一年分の人生設計が書いてある。読めなくても、誰かの手の中にあると思うだけで、裸で廊下に立たされているような気分になった。
明け方近く、ようやく少しだけうとうとした。
夢の中で、ゲームの殿下が私を見下ろしていた。冷たい青い瞳。手には、私の手帳。
――君には最初から、何の期待もしていなかった。
飛び起きると、窓の外はすっかり明るくなっていた。
始業前の教室に駆け込むなり、私は自分の机の中をのぞきこんだ。ない。床にもない。廊下の落とし物置き場にもない。
「エステル」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、教室の入り口に殿下が立っていた。朝の光を背負って、今日も今日とて隙のない笑顔だ。
「おはようございます、殿下」
「おはよう。顔色が悪いね。眠れなかった?」
「い、いえ、そのようなことは」
「そう。それならいいけど」
殿下は一歩近づいてきて、上着の内側から何かを取り出した。
革表紙の、手帳。
「これ、君のだよね。昨日、図書館の窓際の席の下に落ちていたよ」
「……っ」
声にならない声が出た。
「あ、ありがとうございます」
両手で受け取って、胸に抱きしめる。よかった。本当によかった。拾ったのが殿下なら、誰かに言いふらされる心配もない。
それに、殿下には読めない。
「中、見ましたか?」
聞かなくてもいいことを、つい聞いてしまった。
殿下は、にこりと笑った。
「持ち主を確かめるために、少しだけね。見たことのない文字だったけど」
(ですよね!)
心の中で拳を握った。見たことのない文字。つまり、読めなかった。
「お恥ずかしいものをお見せしました。ただの、その、落書きのようなものでして」
「落書き、ね」
殿下は少しだけ首をかしげた。
「大事にしているようだから、もう落とさないようにね」
「はい。肝に銘じます」
殿下は満足そうにうなずいて、自分の教室へ戻っていった。
私はその背中に深々と頭を下げ、手帳を鞄の一番奥にしまいこんだ。
昼休み、私は人の少ない中庭のベンチで、ようやく手帳を開いた。
昨日の分の記録をつけなければ。それに、無事に戻ってきたことを、自分の目で確かめておきたかった。
表紙をめくる。
『破滅回避計画書 第一版』
見慣れた自分の字。ほっと息をつく。
次のページをめくる。
そして、固まった。
赤い。
ページが、赤い。
私の書いた黒い文字の横に、余白に、行間に、びっしりと赤いインクの文字が書き込まれていた。
整った、几帳面な筆跡。
しかも、日本語だった。
『第一項 円満な婚約破棄を目指す』
その横に、赤字で。
『却下。
理由:私が同意しない。』
(……は?)
目をこすった。もう一度見た。消えていない。
震える指で、次の項目を追う。
『第二項 ヒロインには関わらない』
『方針は妥当。ただし「ヒロイン」とは誰を指すのか、名前を明記すること。
なお、入学式の朝の件は把握済み。私は校門には行かなかった。』
(把握済みって何? 行かなかったって何?)
『第三項 国外逃亡資金を貯める』
『資金計画が甘い。
刺繍一枚あたりの卸値が、市場価格の六割程度。商会に足元を見られている。値上げ交渉を推奨。
また、移住先が隣国ルシエラなのはいただけない。あそこの第二王子は女癖が悪い。却下。』
『第四項 殿下とは適切な距離を保つ』
『距離の定義が曖昧。何歩までが適切か、数値で示すこと。
なお「期待しない」の一文には、強く異議を申し立てる。』
ページをめくる。めくる。めくる。
イベントの一覧表には、ひとつひとつに赤い注釈がついていた。日付の誤り。場所の補足。「この日は王宮の式典と重なるので、実際には起こりえない」。「この階段は来月改修される」。
几帳面な私の計画書よりも、さらに几帳面な添削。
最後のページの余白に、ひときわ丁寧な字で、こう書かれていた。
『大変興味深く拝読した。
つきましては、本日の放課後、生徒会室にて詳しく話を聞きたい。
来なければ、こちらから寮まで伺う。
セドリック・オルディア』
私は手帳を閉じた。
空を見上げた。雲ひとつない、よく晴れた昼下がりだった。
(読めてるじゃない)
見たことのない文字だった、と殿下は言った。嘘は言っていない。見たことはなかったのだろう。昨日までは。
(たった一晩で? っていうか、却下って何? 同意しないって何? ルシエラの第二王子の女癖なんて知らないわよ!)
頭の中で、ありとあらゆる叫びが渦を巻いた。
そして、少しずつ冷静になるにつれて、いちばん恐ろしい事実に気がついた。
あの手帳には、卒業夜会のことも書いてある。殿下が私に婚約破棄を言い渡し、私が国外へ追放される未来のことも。
それを、本人が読んだのだ。
「……行くしかない、わよね」
寮まで来られるよりは、ずっとましだ。
午後の授業の内容は、ひとつも頭に入らなかった。




