第2話 計画どおりの学園生活
入学式の朝、王立学園の校門の前で、ひとりの少女が派手に転んだ。
蜂蜜色の髪がふわりと広がり、白い膝が石畳につく。小さな悲鳴。散らばる教科書。
(来た。オープニングイベント)
私は馬車の窓から、その光景を冷静に眺めていた。
ミア・ポートマン男爵令嬢。ゲームのヒロインだ。ここで殿下が通りかかって手を差し伸べ、二人の物語が始まる。
私はその場面に関わらないよう、わざと馬車を遅らせて到着した。計画書の第二項、ヒロインには関わらない。完璧な遂行である。
ところが。
転んだミアは、なかなか立ち上がらなかった。石畳に座りこんだまま、きょろきょろと周囲を見回している。誰かを待っているように。
殿下は来なかった。
代わりに通りかかった用務員のおじいさんが「お嬢ちゃん、大丈夫かい」と声をかけ、ミアは一瞬、ものすごく不満そうな顔をした。
(……え?)
見間違いだろうか。次の瞬間には、ミアは愛らしい笑顔で礼を言っていた。
私は首をかしげながら馬車を降りた。
殿下がいなかったのは、少しだけ気になる。けれど、ゲームと現実が細かいところで違うのは当然かもしれない。私だって、もうゲームどおりのエステルではないのだから。
「やあ、エステル」
講堂の入り口で、背後から声をかけられた。
振り返る前から分かった。この柔らかくて、よく通る声。
「……殿下。おはようございます」
セドリック・オルディア王太子殿下。金の髪に、晴れた日の湖のような青い瞳。制服の着こなしひとつ取っても、隙というものが見当たらない。
周囲の女子生徒たちが、ほうっとため息をつくのが聞こえた。
「制服、よく似合っているね」
「恐れ入ります。殿下もお似合いです」
「ありがとう。式のあと、一緒に昼食をどうかな」
(第四項。昼食の誘いは丁重に断る)
「申し訳ございません。本日は寮の荷解きがございまして」
「そう。それなら仕方ないね」
殿下は少しも気分を害した様子を見せず、にこりと笑った。
「では、また明日」
明日もあるのか、と思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
そこから一か月、私は計画書のとおりに暮らした。
殿下の昼食の誘いは、毎日のように来た。私はそれを毎日のように断った。荷解き、課題、図書館の返却期限、刺繍の締め切り。言い訳の在庫が尽きかけるたびに、手帳の隅に新しい候補を書き足した。
ミアとはできるだけ距離を取った。同じ教室にいても、目を合わせない。廊下ですれ違いそうになったら、さりげなく別の階段を使う。
ゲームのイベントの日には、その場所に近づかなかった。図書館での出会いの日は寮で刺繍をし、噴水イベントの日は授業が終わるとすぐに街へ出た。
その刺繍のほうは、思いのほか順調だった。
「アシュフォード様のハンカチは、王都のご婦人方に大変な人気でして」
学園に出入りする商会の番頭は、帳簿を見ながら満面の笑みを浮かべた。
「来月は三十枚ほど、お願いできませんか」
「ええ、もちろん」
(月二十枚の目標、上方修正)
頭の中で前世の電卓を叩く。この調子なら、一年後には隣国でつつましく暮らせるくらいの資金が貯まる。
順調だ。何もかもが順調すぎるほどに。
けれど、ひとつだけ計画書にない誤算があった。
「エステル様、またセドリック殿下のお誘いをお断りになったのですって?」
教室で、級友の伯爵令嬢がひそひそと話しかけてきた。
「ええ、まあ」
「殿下、少し寂しそうなお顔をなさっていましたわ」
「……殿下はいつも、あのようなお顔では?」
「いいえ。エステル様がいらっしゃらないときの殿下は、なんというか、もっとこう……」
伯爵令嬢は言葉を探して、結局、肩をすくめた。
「とにかく、少しは応じて差し上げたら? 婚約者でいらっしゃるのだし」
(応じたら、計画が崩れるのよ)
私は曖昧に微笑んでごまかした。
殿下が寂しそうに見えるなんて、きっと気のせいだ。あの方は誰にでも同じ笑顔を向ける。断られるたびに「では、また明日」と言うのだって、王太子としての礼儀にすぎない。
ゲームの殿下は、ヒロインと出会ってから、婚約者のことなど目に入らなくなる。今はまだ、その出会いが少し遅れているだけ。
そう考えると、胸の奥がちくりとした。
ちくりとしたことに、私は気づかないふりをした。
(期待しない。第四項)
その日の放課後、私は図書館の窓際の席で、手帳を開いていた。
今月の進捗を確認するためだ。回避したイベントに印をつけ、刺繍の売上を書き込み、来月の予定を見直す。
『入学式の転倒イベント → 回避(殿下不在)』
『図書館の出会い → 回避(寮にて刺繍)』
『噴水イベント → 回避(街にて商談)』
ずらりと並んだ「回避」の文字を眺めて、私は小さく笑った。
一か月で、ここまで来た。残りは十一か月。このまま計画書を守り抜けば、きっと大丈夫。
閉館の鐘が鳴った。私は手帳を鞄にしまい、本を棚に戻して、寮への道を急いだ。
夕食を終え、自室に戻ったのは夜も遅くなってからだった。
今日の分の記録をつけようと、鞄を開ける。
教科書。筆箱。刺繍の図案帳。
それだけだった。
「……え?」
鞄を逆さにして振った。机の上に中身がばらばらと落ちる。もう一度、ひとつひとつ確かめる。
ない。
革表紙の手帳が、どこにもない。
(嘘。図書館? 廊下? それとも、どこかで鞄から落ちた?)
血の気が引いていくのが、自分でも分かった。




