第1話 破滅回避計画書、第一版
鏡に映った自分の姿を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
紺色の上着に、銀糸で星の紋章を刺繍した胸元。明日から通う王立学園の制服だ。仕立て屋が帰ったあと、試しに袖を通してみただけだった。
それなのに、私はその紋章を知っていた。
この世界の人間としてではなく、もっと別の、遠いどこかの人間として。
(……星降る学園の、プリンセス)
ゲームのタイトルが、ごく自然に頭に浮かんだ。
その途端、記憶がなだれ込んでくる。蛍光灯の白い光。積み上がった伝票の山。決算期の深夜、終電を逃した会社の給湯室で、スマートフォンの画面を眺めていた自分。
私は日本という国で、経理の仕事をしていた二十八歳の会社員だった。
そして、鏡の中にいるこの少女は。
「エステル・アシュフォード……」
声に出して名前を呼ぶと、背筋が冷たくなった。
『星降る学園のプリンセス』は、男爵令嬢のヒロインが王立学園で恋をする乙女ゲームだ。攻略対象の中でいちばん人気があったのは、王太子セドリック殿下。
そのセドリック殿下の婚約者で、嫉妬に狂ってヒロインをいじめ抜くのが、公爵令嬢エステル・アシュフォード。
つまり、悪役令嬢である。
(嘘でしょう。よりにもよって、そっち?)
私は鏡の前にへたりこんだ。
ゲームの中のエステルは、卒業夜会で殿下に婚約破棄を言い渡される。ヒロインへの数々の嫌がらせが暴かれ、公爵家の名誉は地に落ち、本人は国外追放。追放先で消息を絶つ、という一文で彼女の物語は終わる。
一文。私の人生、一文。
「お嬢様? 大きな音がしましたけれど」
扉の向こうから侍女の声がした。
「だ、大丈夫よ。裾を踏んで転んだだけ」
「まあ。お怪我は?」
「ないわ。今夜はもう休むから、下がっていいわよ」
足音が遠ざかるのを待って、私はのろのろと立ち上がった。
落ち着こう。まずは落ち着こう。
前世の私は、締め切りに追われるたびに同じことをしていた。状況を書き出す。問題点を洗い出す。対策を決める。期日を切る。それだけで、頭の中の混乱は半分になる。
私は机の引き出しから、使っていない革表紙の手帳を取り出した。ペンをインク壺に浸し、最初のページに大きく書く。
日本語で。
この世界の誰にも読めない文字で。
『破滅回避計画書 第一版』
書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
(よし。現状把握から)
明日、王立学園に入学する。学園は貴族の子女が一年間学ぶ場所で、卒業の日には王宮で夜会が開かれる。断罪はその夜会で起きる。
つまり、残り時間は一年。
ゲームのエステルが破滅した原因は、はっきりしている。ヒロインへのいじめだ。殿下の心がヒロインに移っていくのを見て、エステルは嫉妬に駆られ、教科書を破り、階段から突き落とし、お茶会で恥をかかせた。
(それなら、いじめなければいい)
簡単な話だ。私にはヒロインをいじめる理由が何ひとつない。
殿下のことは、嫌いではない。十歳で婚約してから、年に数回、王宮の庭でお茶をする仲だ。いつも穏やかに微笑んでいて、私のつまらない話にも丁寧に相槌を打ってくれる。
けれど、それだけだ。
あの完璧な笑顔の奥で何を考えているのか、私は一度も分かったことがない。ゲームの殿下は、最後にエステルを冷たく見下ろして、こう言うのだ。
――君には最初から、何の期待もしていなかった。
思い出しただけで胃が痛い。
(うん。殿下とは距離を置こう。ヒロインと結ばれたいなら、どうぞご自由に)
ペンを走らせる。
『第一項 円満な婚約破棄を目指す
・殿下とヒロインの恋路を邪魔しない
・できれば卒業前に、こちらから身を引く形で解消する』
『第二項 ヒロインには関わらない
・いじめない(大前提)
・近づかない、目を合わせない、話しかけられたら礼儀正しく退く
・ゲームのいじめイベントの日時と場所には近寄らない』
『第三項 国外逃亡資金を貯める
・万が一に備え、自分で稼いだお金を確保する
・刺繍入りのハンカチを商会に卸す(月二十枚目標)
・移住先候補:隣国ルシエラ(物価が安く、女性の商売に寛容)』
『第四項 殿下とは適切な距離を保つ
・昼食の誘いは丁重に断る
・二人きりにならない
・期待しない』
最後の一行を書いたとき、ペン先が少しだけ止まった。
期待しない。
前世の私も、そうやって生きていた気がする。期待しなければ、がっかりすることもない。経理の数字と同じで、見込みは常に保守的に。
(それでいいのよ。数字は嘘をつかないけど、人の気持ちは簡単に変わるもの)
私は第五項以降に、覚えている限りのゲームのイベントを書き出した。入学式の朝、校門で転ぶヒロイン。図書館での出会い。中庭の噴水。階段。お茶会。そして、卒業夜会。
日付の分かるものには、すべて期日を書き添えた。
気がつけば、窓の外は白み始めていた。
手帳はすでに十ページ以上が文字で埋まっている。見返してみると、我ながら几帳面だ。項目番号に、小見出しに、期日の一覧表まである。前世の上司が見たら、褒めてくれたかもしれない。
「……完璧だわ」
私は手帳を閉じ、表紙をそっと撫でた。
この手帳さえあれば大丈夫。日本語で書いてあるから、たとえ誰かに見られても、ただの落書きにしか見えないはずだ。
この世界で、この文字を読める人間なんているはずがない。
そう信じて、私はベッドに倒れ込んだ。
あと二時間で、入学式の朝が来る。




