第19話 表題の書き換え
宰相とミアが連れ出されたあと、広間は、しばらくざわめきが収まらなかった。
お父様が、人垣をかき分けてやってきた。私を抱きしめようとして、殿下と手をつないでいることに気づき、少しだけ困った顔をした。
「……よくやった、エステル」
お父様は、それだけ言って、私の頭をぽんと叩いた。
子どものとき以来だった。
お父様が離れると、国王陛下がこちらを見ていた。陛下は殿下に何か目配せをして、それから楽団に向かって、軽く手を振った。
音楽が、止まった。
広間が、もう一度静かになった。
「エステル」
殿下が、私の名前を呼んだ。
振り返ると、殿下はつないでいた手をそっと離して、私の正面に立った。
それから、その場に片膝をついた。
広間中が、息をのむ気配がした。
「で、殿下?」
「セドリック、だよ」
殿下は、膝をついたまま、私を見上げた。
青い瞳が、シャンデリアの光を映していた。
「計画書の最終項、根拠の欄が空いていたね」
「……はい」
「何度も書いて、何度も消した。どう書いても、ただの言葉にしかならなかったから」
殿下は、上着の内側から、もう一冊の手帳を取り出した。
見覚えのある、革表紙の手帳。私の手帳と、同じ形のもの。
けれど、表紙には新しく、金の文字が刻まれていた。
日本語だった。
『婚姻計画書
共著:エステル・アシュフォード、セドリック・オルディア』
「破滅回避計画書は、今夜で完遂した。だから、次の計画書を用意した」
私は、その金文字を見つめた。
婚約破棄の準備をするための計画書だった。破滅を避けるために、一年かけて書いてきた。項目番号と、小見出しと、期日の一覧表。
その表題が、いつの間にか、書き換えられていた。
最初の日から、ずっと。
第一項、却下。理由、私が同意しない。逃亡資金を、結婚資金に。移住先候補を、新婚旅行先候補に。
この人は最初の赤字から、ずっとここに向かって書いていたのだ。
「根拠を、言葉で言うよ。今度は消さない」
殿下は、ゆっくりと息を吸った。
「十歳のとき、王宮の庭で、君は私に言った。お疲れなら、笑わなくても大丈夫ですよ、と。作った笑顔だと見抜かれたのも、それを責めずに気遣われたのも、初めてだった」
「……」
「その日から、ずっと君だけだ。七年間、ずっと。君が私に期待していなくても、構わなかった。いつか、期待してもらえるようになればいいと思っていた」
殿下は、手帳を私に差し出した。
「エステル・アシュフォード。私と、結婚してほしい」
広間には、誰の声もしなかった。
私は、震える手で手帳を受け取った。
表紙をめくる。
一ページ目には、まだ何も書かれていなかった。
真っ白な、最初のページ。
「……第一項が、ありません」
「君と二人で書くんだよ。最初から、そういう約束だろう?」
殿下は、いつかの生徒会室と同じことを言った。
その瞬間、こらえていたものが、全部あふれた。
涙で、金の文字がにじんで見えた。
「私……ずっと、期待しないようにしていました」
声が、ひどく震えた。
「殿下は優しいから。婚約者だから。公爵家の娘だから。全部、そういう理由だと思おうとしていました。そう思っていれば、最後に捨てられても、平気でいられると思って」
「うん」
「でも、全然、平気じゃなかった。東屋でポートマン嬢といるところを見たとき、計画書を置いて生徒会室を出たとき、本当は」
言葉が詰まった。
殿下は、膝をついたまま、黙って待っていてくれた。
「本当は、偽装なんかじゃ、なかったんです。私も」
私は、手帳を胸に抱きしめた。
「第四項の、期待しない、は、削除しました。だから」
深く、息を吸った。
「はい。セドリック。あなたと、結婚します」
殿下が、立ち上がった。
それから、私を抱きしめた。
二歩も、一歩もなかった。
広間に、割れるような拍手が起きた。誰かが歓声を上げ、楽団が慌てて明るい曲を奏で始めた。
その音の中で、殿下が、私の耳元でささやいた。
「やっと、延長の返事がもらえた」
「……追記欄の、五ですか」
「偽装の期間は、君が望むまで。私は延長を希望する、と書いた」
「覚えています」
「延長どころか、偽装じゃなくなったね」
殿下の声は、笑っていた。
顔を上げると、殿下は、見たことのない顔をしていた。
作った笑顔ではなかった。子どもみたいな顔でもなかった。
ただ、ほんとうに嬉しそうに、笑っていた。
(笑わなくても大丈夫ですよ、なんて)
十歳の私は、この人に、ずいぶん残酷なことを言ったのかもしれない。
この人は、こんなにきれいに笑えるのに。




