第18話 添削の時間です
「添削……?」
宰相が、眉をひそめた。
殿下は、私の手を握ったまま、広間の中央から一歩も動かなかった。
「ポートマン嬢の訴えから、順に確認しよう。まず、お茶会でドレスを汚されたという件」
殿下が軽く手を上げると、人垣の中から、ひとりの年配の女性が進み出た。
王妃殿下付きの、女官長だった。
「その日、アシュフォード嬢は、わたくしの隣の席に座っておられました。お茶会のあいだじゅう、刺繍の話をしておりましたわ。ポートマン嬢の席とは、広間の端と端でございます」
女官長は、きっぱりと言った。
「わたくしのハンカチを、三枚も仕立てていただいておりますのよ」
広間の空気が、わずかに変わった。
「次に、教科書の件」
殿下が続けた。
「アシュフォード嬢の机には、鍵がかかっていた。教室にいた全員が、それを見ている。破られた教科書の切れ端は、ポートマン嬢自身の鞄から見つかった。そうだね?」
殿下が目を向けた先で、何人かの級友たちがおずおずとうなずいた。伯爵令嬢が、扇の陰からはっきりと「ええ」と声を上げた。
ミアの顔から、涙が引いていった。
「ちなみに、階段から突き落とされたという話は出なかったようだけど」
殿下は、穏やかに付け加えた。
「出さなくて正解だよ。西棟の大階段は、その時期、改修工事中だったからね」
くすくすと、どこかで笑いが漏れた。
(ああ、もう)
こんなときなのに、私も笑いそうになった。階段がなければ、突き落としようがない。あの日、生徒会室の窓から見た白い布を思い出した。
宰相が、声を荒らげた。
「娘同士の諍いなど、どうでもよろしい。問題は横領です。証拠の帳簿は、ここにある」
「ああ、その帳簿」
殿下は、少しも慌てなかった。
「半月ほど前の深夜、グレイヴ商会の者が、アシュフォード公爵家の倉庫に忍び込んで置いていったものだね」
宰相の顔が、こわばった。
「……何を、根拠に」
「私の騎士が、一部始終を見ていた。商会の者の名前も、時刻も、記録してある」
殿下の背後に、護衛騎士が二人、すっと進み出た。その手には、書類の束があった。
「それから、財務院長」
人垣が割れて、財務院長が姿を見せた。
「三日前に、監査を終えました。アシュフォード公爵家の帳簿に、不正はございません」
財務院長は、宰相をまっすぐに見据えた。
「不正があったのは、財務院に提出された報告書のほうです。石材の数が三年にわたって水増しされ、差額はすべてグレイヴ商会に支払われておりました。報告書の公爵の署名は、偽造です」
「偽造など、どうやって」
「公爵は、頭文字の最後の払いを必ず上に跳ね上げられる。偽造の署名は、まっすぐ横に流れておりました」
財務院長は、そこで一度だけ、私のほうを見た。
「アシュフォード公爵令嬢が、三年分の帳簿を突き合わせて見つけてくださったのです。財務院の誰も、気づけなかったことを」
広間中の視線が、私に集まった。
さっきまでの好奇と憐れみとは、まるで違う視線だった。
私は、どうしていいか分からなくて、ただ殿下の手を握りしめていた。
「それでも」
宰相は、なおも食い下がった。
「それでも、私がそれに関わっていたという証拠には、なりますまい。グレイヴ商会が勝手にやったことです」
「そうだね。だから、もうひとつ」
殿下は、上着の内側から薄い冊子を取り出した。
ミアの顔が、真っ白になった。
「それ……っ」
「最後の面会のときに、君が貸してくれたものだよ。二人の未来が書いてあるから、ぜひ読んでほしいと言って」
殿下は冊子を開いた。
日本語で書かれた、攻略ノートだった。
「この国の誰にも読めない文字だから、証拠にならないと思ったかな。でも、残念ながら、私は読めるんだ」
殿下は、あるページを開いて、広間に響く声で読み上げた。
「卒業夜会。エステルの断罪イベント。横領の証拠が提出される。――ギルベルト様が準備してくれる」
広間が、しんと静まりかえった。
「なんで……」
ミアの声が、震えていた。
「なんで、読めるのよ。日本語なのに」
その一言で、すべてが決まった。
ミアは、自分のノートだと認めたのだ。そして、そこに書かれていることが、自分の知っている「予定」だということも。
宰相が、ミアを睨みつけた。
ミアは、何が起きているのか分からないという顔で、宰相と殿下を交互に見た。
「だって……だって、イベントでしょ? ギルベルト様が、そうするって言ったじゃない。帳簿は準備しておくから、あたしは泣いてればいいって」
「黙れ!」
宰相の怒鳴り声が、広間に響いた。
けれど、もう遅かった。
国王陛下が、玉座から静かに立ち上がった。
「ギルベルト。そなたの宰相の任を解く。詳しい話は、牢で聞こう」
衛兵たちが、宰相を取り囲んだ。宰相は何か叫んでいたけれど、その声はすぐに広間の外へ消えていった。
ミアは、階段の上に座りこんでいた。
「なんで……シナリオは? 強制力は? 卒業夜会では、セドリックがあたしを選ぶはずなのに」
誰も、その言葉の意味を分からなかった。
私以外は。
私は、殿下の手を握ったまま、一歩だけ前に出た。
何もしなくていい、と言われていた。けれど、これだけは、私が言わなければいけない気がした。
「ポートマン嬢」
ミアが、のろのろと顔を上げた。
「ここは、ゲームではありません」
静かに、それだけを言った。
ミアは、私を見上げたまま、何も言い返さなかった。
衛兵に両脇を抱えられて、ミアは広間から連れ出されていった。
後日、ポートマン男爵家は、宰相の不正に加担した罪で爵位を返上することになった。ミアは領地の修道院に送られ、そこで静かに暮らしているという。
けれど、それを知るのは、もう少しあとのことだ。




