第14話 書けない欄
白紙の手帳の一ページ目に、私はようやく書いた。
『現状把握』
いつもの癖だった。混乱したら、まず書き出す。問題点を洗い出して、対策を決めて、期日を切る。
『・殿下は、ポートマン嬢と東屋で何度も会っている
・監査の日程変更を、私には知らせなかった
・計画書の赤字が減った
・卒業夜会まで、あと三週間』
ここまでは、すらすら書けた。
その下に、もう一行。
『・殿下の本心 →』
そこで、ペンが止まった。
矢印の先に、何を書けばいいのか分からなかった。
(殿下の本心)
私は、殿下の何を知っているのだろう。
花の香りの紅茶を覚えていてくれたこと。名前を呼ぶと、子どもみたいな顔で笑うこと。書庫で上着をかけてくれたこと。メモの桁違いを直されて、なぜか嬉しそうだったこと。
君の家の問題は、私の問題だよ。
婚約者だからね。
ひとつひとつ思い出すたびに、胸が苦しくなる。
けれど、どれも「本心」の証明にはならなかった。
優しくしてくれるのは、殿下が優しい人だから。紅茶を覚えていたのは、殿下が記憶力のいい人だから。上着は、協力者が寒そうだったから。君の家の問題は私の問題、なのは、私が婚約者だから。
公爵家の、婚約者だから。
全部、説明がついてしまう。
説明がついてしまうことが、こんなに悲しいとは思わなかった。
私は、矢印の先を空欄のまま残して、次の行に移った。
『対策』
書きながら、自分の字が少し震えているのに気づいた。
『一、監査の結果が出るまでは、帳簿の分析を最後までやり遂げる
(これは、殿下のためではなく、お父様のため)』
一行目は、迷わなかった。お父様は無実だ。それだけは、私が証明しなければならない。
『二、殿下の邪魔をしない』
殿下がミアと会っているのが、宰相を探るためなら、私が口を出せば邪魔になる。
もし、そうでないのなら。
『三、殿下を、自由にする』
ペン先が、紙に引っかかった。
私は、しばらくその一行を見つめていた。
ゲームのシナリオがどうであれ、殿下が誰を選ぶかは、殿下が決めることだ。ミアに言ったとおり、殿下は物ではない。ルートやイベントで手に入れるものではない。
それなら、婚約という鎖で縛っておくのも、同じことではないのか。
もし公爵家が力を失ったら、私は殿下の重荷にしかならない。殿下はきっと、優しいから、それでも婚約者として扱ってくれるだろう。義務として。
それは、嫌だった。
殿下に、義務で隣にいてほしくなかった。
『四、第一項の保留を、解除する』
書き終えたとき、手の甲にぽたりと水が落ちた。
自分が泣いているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
次の日から、私は生徒会室に行かなくなった。
「申し訳ございません。刺繍の締め切りがございまして」
廊下で殿下に声をかけられるたびに、私は丁寧に頭を下げた。
入学したばかりの頃と、同じ断り文句だった。
殿下は、一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。けれど、すぐにいつもの笑顔に戻って、「そう。それなら仕方ないね」と言った。
あの頃と、同じ返事だった。
ただひとつ違ったのは、殿下が「また明日」と言わなかったことだ。
忙しいのだろう。ミアとの約束が、あるのだろう。
私は寮の部屋にこもって、帳簿の分析の最後の仕上げをした。三年分の差額の一覧表。偽造された署名の比較。グレイヴ商会への支払いの流れ。
それから、商会の番頭に手紙を書いた。
『海沿いのマリエへ向かう船便について、卒業後の日程で調べていただけますか』
殿下が「新婚旅行先候補」と書き換えた、あの地名だった。夏の夕日が美しい、と赤字で書いてあった町。
ほかの町にすればよかったのかもしれない。けれど、手が勝手に書いていた。
一週間後、すべての書類がそろった。
私は帳簿の分析をまとめた封筒と、共著の計画書を、生徒会室へ届けることにした。殿下が不在の時間を、わざわざ選んで。
生徒会室には、誰もいなかった。
殿下の机の上に、封筒を置いた。その隣に、計画書を置こうとして、手が止まった。
最後に、書いておかなければならないことがある。
私は計画書の第一項のページを開いた。
『第一項 保留(ただし、私は同意しない)』
殿下の赤い字の下に、黒いペンで書いた。
『保留を解除します。
当初の予定どおり、円満な婚約破棄を目指します。
これまでのご協力に、心から感謝いたします。
エステル・アシュフォード』
インクが乾くのを待って、手帳を閉じた。
表紙の革を、一度だけ撫でた。
殿下と二人で書いた、たくさんの赤と黒の文字。却下、異議あり、保留、花丸。逃亡資金を結婚資金に書き換えられて、二重線で戻して、また書き換えられて。
全部、ここに置いていく。
私は手帳を机の上に置いて、生徒会室を出た。
扉を閉めたあと、廊下の窓から中庭が見えた。
東屋には、誰もいなかった。




