第13話 ゲームどおりの噂
冬が深まるにつれて、殿下は忙しくなった。
「ごめん、エステル。今日は用事があって」
生徒会室の扉の前で、殿下は申し訳なさそうに笑った。今週に入って、三度目だった。
「いいえ。お気になさらず」
「計画書は預かっておくよ。明日、返すから」
殿下は私から手帳を受け取って、足早に廊下の向こうへ消えていった。
翌日、返ってきた手帳には、赤字がほとんど入っていなかった。
『確認した。』
それだけだった。
(……確認した、だけ)
前は、私が一行書けば、三行の赤字が返ってきたのに。却下、異議あり、代案を提示する、花丸。ページの余白が足りなくなるくらい、書き込まれていたのに。
私は、その四文字を指でなぞった。
忙しいのだ。分かっている。宰相のこと、監査のこと、殿下は私には言えないことをたくさん抱えている。
分かっているのに、胸の奥がすうすうした。
噂を聞いたのは、その週の終わりだった。
「エステル様、あの、お耳に入れておいたほうがいいかと思って」
伯爵令嬢が、言いにくそうに声をひそめた。
「殿下が、放課後にポートマン嬢と会っていらっしゃるそうなのです。中庭の東屋で、何度も」
一瞬、教室の音がすべて遠くなった。
「……何度も」
「ええ。見かけた方が何人もいて。もちろん、わたくしは信じておりませんけれど」
伯爵令嬢は、横領の噂のときと同じ言葉を言った。
信じておりませんけれど。
(私は、信じたくない)
信じたくないのに、頭のどこかが冷静に計算を始めていた。殿下が忙しくなった時期。用事があると言って、生徒会室に来なくなった日。赤字が四文字になった日。
全部、ぴたりと合う。
それに、ゲームの中では。
セドリックルートの後半、殿下は放課後の東屋で、ヒロインと何度も会うのだ。二人だけの秘密の時間。婚約者のエステルには内緒で。
ゲームどおりだった。
確かめるつもりなんて、なかった。
ただ、帰り道に中庭を通っただけだ。いつもは西の回廊を使うのに、その日はなぜか、足が東へ向いた。
東屋には、二人の姿があった。
ミアが、殿下の腕にそっと手を添えていた。蜂蜜色の髪が、殿下の肩に触れそうなほど近い。手には、あの薄い冊子を持っている。攻略ノートだ。
ミアはノートを開いて、何かを熱心に話していた。
殿下は、それをのぞきこんで、微笑んでいた。
いつもの、完璧な笑顔で。
私は、柱の陰で立ち止まった。
距離は、二歩よりずっと遠い。声は聞こえない。それでも、ミアが笑うたびに、殿下がうなずくのが見えた。
(偽装、なのかしら)
ふと、そう思った。
殿下は、宰相を追い詰めるために動いている。ミアは宰相とつながっている。だから殿下は、ミアに近づいて、何かを探っているのかもしれない。
そうだったら、いい。
でも、もし違ったら。
――セドリックがあんたに優しいの、なんでだと思う?
温室で聞いたミアの声が、耳の奥でよみがえった。
――公爵家の力が欲しいからよ。
公爵家は今、横領の疑いをかけられている。監査の結果しだいでは、力を失うかもしれない。
力を失った公爵家の娘に、王太子が何を期待するだろう。
私は、柱から手を離した。
見なかったことにして、西の回廊へ引き返した。
寮に戻ると、実家から手紙が届いていた。お父様の、少しかたい字だった。
『監査の日程が変更になった。卒業夜会の三日前だ。殿下からも、心配はいらないとお言葉をいただいている。お前は学業に専念しなさい』
私は、手紙を二度読んだ。
監査の日程が変わった。それも、卒業夜会の直前に。
殿下は、それを知っていた。お父様に「心配はいらない」と伝えるほどに。
それなのに、私には何も言わなかった。
計画書には、何も書かれていなかった。
『確認した。』
四文字の赤字を、もう一度思い浮かべた。
第六項、公爵家の潔白を証明する。担当、エステル・アシュフォード(帳簿)、セドリック・オルディア(その他すべて)。
その他すべて。
最初から、そういう約束だった。帳簿を調べるのは私で、それ以外は殿下がやる。私が口を出すことではない。
分かっている。
分かっているのに、どうしてだろう。
まるで、私だけが計画書の外に置いていかれたような気がした。
その夜、私は久しぶりに、自分ひとりのための白紙の手帳を開いた。
何を書けばいいのか分からなくて、ペンを持ったまま、長いあいだ動けなかった。




