第11話 もう一冊のノート
「エステル様。少し、お時間をいただけません?」
昼休み、温室の前で声をかけられた。
振り返ると、ミア・ポートマンが立っていた。蜂蜜色の髪に、大きな瞳。いつもの可憐な笑顔を浮かべている。
周りには、誰もいなかった。
(第二項。ヒロインには関わらない)
「申し訳ございません。これから生徒会室に」
「セドリック様のところでしょう? 少しだけですわ。すぐ済みますから」
ミアは、私の返事を待たずに温室の扉を開けた。
逃げることもできた。けれど、ここで背を向けたら、あとで何を言われるか分からない。私は覚悟を決めて、ミアのあとに続いた。
温室の中は、むっとするほど暖かかった。南国の大きな葉が重なりあって、外からはほとんど中が見えない。
ミアは奥のベンチの前で立ち止まり、振り返った。
笑顔が、消えていた。
「単刀直入に言うわね」
声の調子まで、がらりと変わっていた。
「あんたも、転生者でしょ」
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「……何のお話でしょう」
「とぼけなくていいわよ。見たんだから。図書館で、あんたが手帳に日本語を書いてるところ」
ミアは鼻で笑った。
「破滅回避計画書、だっけ? 悪役令嬢が書きそうなことよね。真面目すぎて、ちょっと引いたけど」
(見られていた)
手帳を失くしたあの日より前だろうか。殿下ではなく、ミアに。
ミアは制服のポケットから、薄い冊子を取り出した。表紙には、私の手帳と同じ文字で、こう書いてあった。
『星降る学園のプリンセス 攻略ノート セドリックルート』
「あたしはね、ずっとこのルートがやりたかったの。前世で三周もしたんだから」
ミアは、ノートを指でぱらぱらとめくった。日付と、場所と、選択肢。ゲームの出来事が、ぎっしりと書き込まれている。
私の計画書と、ほとんど同じ内容だった。
ただし、目的が正反対だ。
「それなのに、あんたのせいで全然イベントが起きない」
ミアの声が、低くなった。
「校門で転んでもセドリックは来ないし、お茶会もぶち壊し。教科書だって、せっかく準備したのに、机に鍵なんかかけて」
(準備したって、自分で言った)
私は黙ってミアを見つめた。
ミアは、それに気づいていないようだった。
「悪役は、悪役らしくしてよ。あんたがあたしをいじめてくれないと、セドリックがあたしを守る場面が来ないの。分かる?」
「分かりません」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「私は、あなたをいじめません。誰かをいじめる役なんて、引き受けるつもりはありません」
「……は?」
「それに、殿下は物ではありません。ルートとか、イベントとか、そういうもので手に入る方ではないと思います」
言ってから、少しだけ後悔した。
第一項は、まだ保留のままだ。円満な婚約破棄を目指していたはずの私が、何を偉そうに言っているのだろう。
けれど、ミアの言い方が、どうしても我慢できなかった。
ミアは、しばらく黙っていた。
それから、くすりと笑った。
「あんた、ほんとに何も分かってないのね」
ミアは一歩、近づいてきた。
「ゲームの強制力って、知ってる? どんなに逃げても、最後はシナリオに戻るのよ。卒業夜会で、セドリックはあんたを捨てる。それは変わらない」
「……」
「それにね、セドリックがあんたに優しいの、なんでだと思う?」
ミアの声が、甘く、意地悪くなった。
「公爵家の力が欲しいからよ。王太子なんて、結局そういうものでしょ。あんたの家が使えなくなったら、すぐに捨てられるわ」
胸の奥を、冷たい手で掴まれたような気がした。
(違う)
そう言い返したかった。けれど、言葉が出てこなかった。
殿下は優しい。毎晩、書庫で一緒に帳簿をめくってくれた。上着をかけてくれた。君の家の問題は、私の問題だと言ってくれた。
けれど、それが「婚約者だから」なのだとしたら。
公爵家の婚約者だから、なのだとしたら。
ミアは、私の顔を見て満足そうに笑った。
「せいぜい、計画書でも書いてれば? どうせ、あんたの家はもうすぐ大変なことになるんだから」
そう言い残して、ミアは温室を出ていった。
扉が閉まる音が、ずいぶん遠くで聞こえた。
私は、ベンチに腰を下ろした。
南国の葉の隙間から、ぼんやりと光が差し込んでいる。
ミアの言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。強制力。シナリオ。公爵家の力が欲しいから。
(落ち着いて。状況を整理する)
いつもの癖で、頭の中に計画書を広げた。
ミアは転生者だった。ゲームのセドリックルートを再現しようとしている。イベントの失敗は、私のせいだと思っている。
それから。
ミアは最後に、こう言った。
――どうせ、あんたの家はもうすぐ大変なことになるんだから。
私は、はっと顔を上げた。
横領の噂は、社交界ではもう広まっている。けれど、来月に財務院の監査が入ることは、まだ公表されていない。お父様が殿下に手紙で知らせただけだ。
それなのに、ミアは「もうすぐ」と言った。
まるで、いつ何が起きるのか、知っているかのように。
ゲームには、横領の話はなかった。攻略ノートを何周しても、知りようがない。
それなら、ミアはどこでそれを知ったのだろう。
私は立ち上がった。
生徒会室へ行かなければ。殿下に、話さなければ。
温室の扉に手をかけたとき、ミアの最後の言葉が、もう一度だけ耳の奥でよみがえった。
――公爵家の力が欲しいからよ。
私は、扉を押す手に力を込めた。
(今は、そんなことを考えている場合じゃない)
そう自分に言い聞かせながら、廊下を走った。




