第10話 帳簿と赤ペン
三日後、王宮の書庫の奥の一室に、帳簿の山が届いた。
公爵家の帳簿が十二冊。財務院に提出された報告書の写しが八冊。工事を請け負った商会の請求書の束が、木箱にふたつ。
「……思ったより、ありますね」
「怖気づいた?」
「いいえ。燃えてきました」
殿下は少し笑って、窓のない部屋にランプを三つ灯した。
閉館後の書庫を使えるのは、殿下が書庫長に話を通してくれたからだ。もちろん、二人きりではない。扉の外には殿下の護衛騎士が控えている。
(偽装の追記欄、一、放課後のお茶会。……書庫での作業も、お茶会に含まれるのかしら)
どうでもいいことを考えながら、私は一冊目の帳簿を開いた。
それから毎晩、私たちは書庫に通った。
私が数字を読み上げ、殿下が書き留める。私が気になる箇所に付箋を貼り、殿下が該当する請求書を木箱から探し出す。
前世で使っていた電卓はない。けれど、暗算なら負けない。
「三月分の石材、公爵家の記録では二百四十台。財務院の報告書では……三百十台」
「七十台の差だね」
「請求書は?」
殿下が束をめくった。
「三百十台分で請求されている。グレイヴ商会」
「でも、領地の受け取り記録には、二百四十台分の署名しかありません」
私はお父様の帳簿の、受け取り欄を指さした。現場の監督官の署名が、毎回きちんと並んでいる。
殿下が身を乗り出して、帳簿をのぞきこんだ。
「つまり、届いていない七十台分の代金が、商会に払われている」
「はい。それも、財務院の報告書の上だけで」
ページをめくる。四月分も、五月分も、同じだった。少しずつ、目立たない程度に、数字が水増しされている。
「上手なやり方です。一か月分だけ見ても、誤差の範囲にしか見えません。でも、三年分を並べると」
私は、自分で作った一覧表を殿下に差し出した。月ごとの差額を書き出して、合計した表だ。
殿下はそれを見て、静かに息をのんだ。
「……かなりの額だね」
「はい」
それから私は、もうひとつ付箋を貼っておいた箇所を開いた。
財務院の報告書の、最後のページ。お父様の署名がある。
「殿下。この署名、見ていただけますか」
「公爵の署名だね」
「お父様は、アシュフォードの頭文字を書くとき、最後の払いを必ず上に跳ね上げるんです。子どもの頃からの癖だと、お母様がよく笑っていました」
私はお父様の帳簿の署名と、報告書の署名を並べた。
帳簿の署名は、最後の払いが上に跳ねている。
報告書の署名は、まっすぐ横に流れている。
殿下はしばらく黙って、ふたつの署名を見比べていた。
「……偽造」
「たぶん。報告書を財務院に出す途中で、誰かが中身を差し替えたのだと思います」
殿下はゆっくりと顔を上げた。
ランプの光の中で、青い瞳が、見たことのない色をしていた。冷たくて、静かで、少しだけ怖かった。
けれど、その瞳が私を見た瞬間、ふっと和らいだ。
「エステル。君は、すごいね」
「数字を見ただけです」
「その数字を、三年分も並べられる人は、王宮にもそういない」
殿下はそう言って、自分のメモ帳を開いた。差額の合計を書き写すためだ。
私は横から、そのメモをのぞきこんだ。
「……殿下」
「何かな」
「ここ、桁がひとつずれています」
殿下のペン先が止まった。
私は黒いペンを借りて、殿下のメモの数字に二重線を引き、正しい数字を書き込んだ。その横に、小さく「要確認」と添えた。
殿下はそれをじっと見下ろして、それから、肩を震わせて笑い出した。
「添削された」
「添削しました」
「初めてだよ。私の書いたものに、誰かが赤を入れるのは」
「黒ですけど」
「同じことだよ」
殿下は笑いながら、メモ帳を大事そうに閉じた。なぜか、ものすごく嬉しそうだった。
(数字を直されて、喜ぶ人なんている?)
首をかしげながらも、私も少しだけ、口元がゆるんでいた。
作業が終わったのは、真夜中近くだった。
最後の付箋を貼り終えて顔を上げると、肩にふわりと温かいものがかけられた。
殿下の上着だった。
「書庫は冷えるからね」
「殿下が寒くなります」
「私は平気だよ。鍛えているから」
殿下はシャツの袖をまくった腕で、帳簿を一冊ずつ木箱に戻していった。
上着からは、かすかに紅茶と、インクの匂いがした。
私は上着の襟をぎゅっと握った。
(これは、偽装の範囲内?)
追記欄には、上着をかけるなんて項目はなかった。誰も見ていない書庫で、偽装をする意味もない。
それなら、これは何なのだろう。
考えかけて、私は首を振った。
殿下は優しい人だ。協力者が寒そうにしていたら、上着くらい貸してくれる。それだけのことだ。
期待しない。第四項。
何度も唱えてきた言葉なのに、今夜はどうしてか、うまく唱えられなかった。
「エステル」
帳簿を片付け終えた殿下が、振り返った。
「ありがとう。君がいなかったら、ここまで分からなかった」
「お礼を言うのは、私のほうです。公爵家の問題なのに」
「君の家の問題は、私の問題だよ」
殿下はあっさりと言った。
それから、ランプの灯をひとつずつ消していった。最後のひとつを消す前に、ふと手を止めて、私のほうを見た。
「……婚約者だからね」
その言葉の意味を、私は寮に帰る道のあいだ、ずっと考えていた。
上着を返し忘れたことに気づいたのは、自室の扉を閉めてからだった。




