↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/39

第9話 診療所と、コリン


「なにしてるの」


 廊下に立っていたコリンは、私と机の上の白狐を交互に見ていた。


 十歳くらいの子どもにとって、領主館の一室で薬草を並べている新参の奥様と、当然の顔で机を占拠する白狐は、なかなか説明の難しい組み合わせらしい。


 私としても、白狐がなぜ机の上にいるのかは説明できない。


 できないものは無理に説明しない方がいい。薬の副作用も、わからない時はわからないと言うのが大事である。


「薬を作っています」


「なんで」


「飲んだら楽になる人がいるからです」


 コリンは少しだけ目を細めた。疑っているというより、言葉を選んでいる顔だった。


 子どもは時々、大人よりずっとまっすぐに確かめてくる。社交辞令という余計な包み紙がない分、刺さる時はよく刺さる。


「それ、じいちゃんにも効く?」


「咳のことですか」


 コリンは頷いた。


 昨日、広場で会った老人の顔を思い出す。慢性的な咳、痰、季節による悪化、坂での息切れ。水路や煙、家の湿気、栄養状態。


 原因は一つではないだろう。それでも、今つらい咳を少し楽にすることはできるかもしれない。


「診てみないと、はっきりとは言えません。でも、楽にする方法は探せます」


「魔法じゃないのに?」


「魔法ではありません」


「じゃあ、なんで楽になるの」


 良い質問だと思った。前世の薬局でも、同じ質問をされたことがある。ただし相手は子どもではなく、薬を飲むのが嫌いな五十代の男性だった。


 質問の内容は同じでも、コリンの方がずっと素直である。


「体が少し働きやすくなるように、薬草で手伝うからです。咳を全部止める薬ではありません。痰を出しやすくしたり、喉の痛みを和らげたり、眠る時に息が苦しくなりにくいようにします」


「全部は治らないの?」


「全部治すには、家の空気や食べ物や水も変えないといけません。だから今、少しずつ直しています」


 コリンは黙って私を見た。


 嘘をついていないか確かめる目だった。私はその目を嫌いではない。


 疑うことは、悪いことではない。薬を飲む前に何が入っているか知りたいと思うのは、むしろ正しい。


「じいちゃん、夜に咳で起きる」


「では、今夜試せる薬を作りましょう」


 私は机から白狐を下ろそうとした。白狐は下りなかった。むしろ尾で薬草の束を押さえた。


「そこは作業台です」


 白狐は金色の目で私を見た。


 話し合いは今日も不成立である。仕方なく、私は別の小卓を引き寄せた。


 診療所の開設初日から机を狐に奪われるとは思わなかったが、現場とはいつも予想外で始まるものだ。


 翌日、領主館の一室を正式に診療所として使う許可が出た。


 正式に、と言っても、古い応接室の椅子を減らし、窓を開けやすくし、棚に薬草と布と小瓶を並べただけである。


 それでも、部屋の役割が決まると空気が変わる。使われずに沈んでいた部屋が、少し背筋を伸ばしたように見えた。


 ジルドが古い帳面を一冊置いてくれた。


「診た方の記録にお使いください」


「ありがとうございます。助かります」


「閣下から、必要なものがあれば申し出るようにと」


 私は少し手を止めた。


「カルロス様が?」


「はい」


 本人が直接言わないところが、いかにも彼らしい。言葉で差し出すのが苦手なら、物資で差し出す。薬草棚、外套、物資、そして帳面。だんだん処方の傾向が読めてきた。無口な領主様の主成分は、行動らしい。


 午前のうちに、コリンが祖父を連れてきた。


 老人は遠慮がちに椅子へ腰を下ろした。私はまず呼吸の速さを見て、唇の色、手の冷たさ、爪の状態を確認した。それから咳の出る時間、痰の色、眠れるか、食べられるかを聞いていく。


「奥様、そんなことまで聞くんですか」


 老人が苦笑する。


「聞かないと、薬が選べません」


「薬草を煎じるだけでは?」


「煎じる薬草を間違えると、効かないだけでなく悪くなることがあります」


 そう言うと、コリンが老人の袖を引いた。


「ちゃんと答えて」


「お前の方が厳しいな」


 老人は困ったように笑い、それから少しずつ話してくれた。夜明け前に咳が増えること、冬は特にひどいこと、寝室の壁が湿ること、薪を節約するために火を弱めがちなこと。


 私は記録し、喉を潤す薬草と痰を出しやすくする薬草を選んだ。強すぎるものは避ける。老人の体力は落ちている。薬は強ければいいものではない。強い薬は、体力のない人には重い荷物になる。


「まず三日分です。寝る前に温めて、少しずつ飲んでください。冷めたものを一気に飲まないように」


「温めるんだね」


 コリンが確認する。


「はい。温かい方が喉にも楽です」


 そう言いながら、私はふとカルロス様を思い出した。あの人も、いつも温かいものを口にしている。冷たいものが苦手だと言っていた。今はただの習慣として記録しているだけだが、妙に頭に残る。


 翌朝、診療所の扉が勢いよく開いた。


「奥様!」


 コリンだった。息を切らし、頬を赤くしている。悪化したのかと一瞬身構えたが、彼の目は明るかった。


「じいちゃんの咳、減った!」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。


「夜は眠れましたか」


「一回しか起きなかった。いつもは何回も起きるのに。朝も、粥を全部食べた」


 コリンは、まるで自分のことのように嬉しそうだった。いや、たぶん自分のことでもあるのだろう。家族の咳で眠れない夜は、そばにいる子どもの眠りも削る。


 私は前世の薬局を思い出した。


 薬を渡した翌日、少し楽になったと報告してくれた人の顔。痛みが完全に消えたわけではなくても、夜眠れたと笑った人の声。私はそのたびに、白衣の袖口を直しながら、また明日も同じ仕事をしようと思っていた。


 この顔が見たくて、仕事をしていたのだ。


「よかったです」


 そう言うと、コリンは少し照れたようにそっぽを向いた。


 その日の昼には、噂が広がっていた。


 咳の老人が眠れたらしい。奥様は魔法を使わずに薬を作るらしい。白狐が診療所の机にいるらしい。最後の情報は、治療効果にまったく関係ないのに一番早く広がった気がする。人はいつでも、薬効より珍しい狐に強い関心を示す。


 午後には、三人が診療所に来た。


 ふらつく女性、傷の治りが遅い若者、眠れないと言う老人。私は一人ずつ話を聞き、できることとできないことを分けて伝えた。魔法のような即効性はない。けれど、今の生活の中で少し楽になる方法はある。


 夜になっても、私は薬草を整理していた。


 診療所には乾いた草の香りと、煎じた薬の匂いが残っている。灯りの下で帳面を見直し、今日来た人の症状を書き足す。記録は地味だ。けれど、地味なものほど後で効いてくる。


 廊下に足音がした。


 扉の前で止まる。誰かがいる。私は顔を上げたが、すぐには声をかけなかった。足音の重さと間の取り方で、だいたいわかる。カルロス様だ。


 しばらく沈黙があった。


 やがて、軽く扉が叩かれた。


「何かいるか」


 短い声だった。


「特にはありませんが、入りますか」


 また沈黙。


 扉の向こうで、彼が考えている気配がした。入る理由を探しているのか、入らない理由を探しているのか。どちらにしても、扉一枚を挟んで真剣に悩む内容としては少し可笑しい。


「……いい」


 それだけ言って、足音は遠ざかった。


 私は扉を見つめ、少しだけ首を傾げた。何かいるか、と聞きに来て、入らずに帰る。用件は物資の確認だったのだろう。たぶん。記録には、カルロス様、診療所の前で立ち止まる、とだけ書いておく。原因はまだ不明。


 翌朝、診療所へ行くと、暖炉が新しく直されていた。


 昨日まで煤で黒ずみ、火の回りが悪かった古い暖炉が、きれいに掃除され、割れた石も替えられている。火を入れると、部屋の奥まで柔らかく暖まった。


 机の上では白狐が満足そうに丸くなっている。


「あなたが頼んだわけではありませんよね」


 白狐は目を閉じたまま、尾だけを揺らした。


 私は暖炉の前に立ち、しばらく炎を見た。


 カルロス様は、相変わらず何も言わない。けれど、この部屋は確かに暖かくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。