第9話 診療所と、コリン
「なにしてるの」
廊下に立っていたコリンは、私と机の上の白狐を交互に見ていた。
十歳くらいの子どもにとって、領主館の一室で薬草を並べている新参の奥様と、当然の顔で机を占拠する白狐は、なかなか説明の難しい組み合わせらしい。
私としても、白狐がなぜ机の上にいるのかは説明できない。
できないものは無理に説明しない方がいい。薬の副作用も、わからない時はわからないと言うのが大事である。
「薬を作っています」
「なんで」
「飲んだら楽になる人がいるからです」
コリンは少しだけ目を細めた。疑っているというより、言葉を選んでいる顔だった。
子どもは時々、大人よりずっとまっすぐに確かめてくる。社交辞令という余計な包み紙がない分、刺さる時はよく刺さる。
「それ、じいちゃんにも効く?」
「咳のことですか」
コリンは頷いた。
昨日、広場で会った老人の顔を思い出す。慢性的な咳、痰、季節による悪化、坂での息切れ。水路や煙、家の湿気、栄養状態。
原因は一つではないだろう。それでも、今つらい咳を少し楽にすることはできるかもしれない。
「診てみないと、はっきりとは言えません。でも、楽にする方法は探せます」
「魔法じゃないのに?」
「魔法ではありません」
「じゃあ、なんで楽になるの」
良い質問だと思った。前世の薬局でも、同じ質問をされたことがある。ただし相手は子どもではなく、薬を飲むのが嫌いな五十代の男性だった。
質問の内容は同じでも、コリンの方がずっと素直である。
「体が少し働きやすくなるように、薬草で手伝うからです。咳を全部止める薬ではありません。痰を出しやすくしたり、喉の痛みを和らげたり、眠る時に息が苦しくなりにくいようにします」
「全部は治らないの?」
「全部治すには、家の空気や食べ物や水も変えないといけません。だから今、少しずつ直しています」
コリンは黙って私を見た。
嘘をついていないか確かめる目だった。私はその目を嫌いではない。
疑うことは、悪いことではない。薬を飲む前に何が入っているか知りたいと思うのは、むしろ正しい。
「じいちゃん、夜に咳で起きる」
「では、今夜試せる薬を作りましょう」
私は机から白狐を下ろそうとした。白狐は下りなかった。むしろ尾で薬草の束を押さえた。
「そこは作業台です」
白狐は金色の目で私を見た。
話し合いは今日も不成立である。仕方なく、私は別の小卓を引き寄せた。
診療所の開設初日から机を狐に奪われるとは思わなかったが、現場とはいつも予想外で始まるものだ。
翌日、領主館の一室を正式に診療所として使う許可が出た。
正式に、と言っても、古い応接室の椅子を減らし、窓を開けやすくし、棚に薬草と布と小瓶を並べただけである。
それでも、部屋の役割が決まると空気が変わる。使われずに沈んでいた部屋が、少し背筋を伸ばしたように見えた。
ジルドが古い帳面を一冊置いてくれた。
「診た方の記録にお使いください」
「ありがとうございます。助かります」
「閣下から、必要なものがあれば申し出るようにと」
私は少し手を止めた。
「カルロス様が?」
「はい」
本人が直接言わないところが、いかにも彼らしい。言葉で差し出すのが苦手なら、物資で差し出す。薬草棚、外套、物資、そして帳面。だんだん処方の傾向が読めてきた。無口な領主様の主成分は、行動らしい。
午前のうちに、コリンが祖父を連れてきた。
老人は遠慮がちに椅子へ腰を下ろした。私はまず呼吸の速さを見て、唇の色、手の冷たさ、爪の状態を確認した。それから咳の出る時間、痰の色、眠れるか、食べられるかを聞いていく。
「奥様、そんなことまで聞くんですか」
老人が苦笑する。
「聞かないと、薬が選べません」
「薬草を煎じるだけでは?」
「煎じる薬草を間違えると、効かないだけでなく悪くなることがあります」
そう言うと、コリンが老人の袖を引いた。
「ちゃんと答えて」
「お前の方が厳しいな」
老人は困ったように笑い、それから少しずつ話してくれた。夜明け前に咳が増えること、冬は特にひどいこと、寝室の壁が湿ること、薪を節約するために火を弱めがちなこと。
私は記録し、喉を潤す薬草と痰を出しやすくする薬草を選んだ。強すぎるものは避ける。老人の体力は落ちている。薬は強ければいいものではない。強い薬は、体力のない人には重い荷物になる。
「まず三日分です。寝る前に温めて、少しずつ飲んでください。冷めたものを一気に飲まないように」
「温めるんだね」
コリンが確認する。
「はい。温かい方が喉にも楽です」
そう言いながら、私はふとカルロス様を思い出した。あの人も、いつも温かいものを口にしている。冷たいものが苦手だと言っていた。今はただの習慣として記録しているだけだが、妙に頭に残る。
翌朝、診療所の扉が勢いよく開いた。
「奥様!」
コリンだった。息を切らし、頬を赤くしている。悪化したのかと一瞬身構えたが、彼の目は明るかった。
「じいちゃんの咳、減った!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。
「夜は眠れましたか」
「一回しか起きなかった。いつもは何回も起きるのに。朝も、粥を全部食べた」
コリンは、まるで自分のことのように嬉しそうだった。いや、たぶん自分のことでもあるのだろう。家族の咳で眠れない夜は、そばにいる子どもの眠りも削る。
私は前世の薬局を思い出した。
薬を渡した翌日、少し楽になったと報告してくれた人の顔。痛みが完全に消えたわけではなくても、夜眠れたと笑った人の声。私はそのたびに、白衣の袖口を直しながら、また明日も同じ仕事をしようと思っていた。
この顔が見たくて、仕事をしていたのだ。
「よかったです」
そう言うと、コリンは少し照れたようにそっぽを向いた。
その日の昼には、噂が広がっていた。
咳の老人が眠れたらしい。奥様は魔法を使わずに薬を作るらしい。白狐が診療所の机にいるらしい。最後の情報は、治療効果にまったく関係ないのに一番早く広がった気がする。人はいつでも、薬効より珍しい狐に強い関心を示す。
午後には、三人が診療所に来た。
ふらつく女性、傷の治りが遅い若者、眠れないと言う老人。私は一人ずつ話を聞き、できることとできないことを分けて伝えた。魔法のような即効性はない。けれど、今の生活の中で少し楽になる方法はある。
夜になっても、私は薬草を整理していた。
診療所には乾いた草の香りと、煎じた薬の匂いが残っている。灯りの下で帳面を見直し、今日来た人の症状を書き足す。記録は地味だ。けれど、地味なものほど後で効いてくる。
廊下に足音がした。
扉の前で止まる。誰かがいる。私は顔を上げたが、すぐには声をかけなかった。足音の重さと間の取り方で、だいたいわかる。カルロス様だ。
しばらく沈黙があった。
やがて、軽く扉が叩かれた。
「何かいるか」
短い声だった。
「特にはありませんが、入りますか」
また沈黙。
扉の向こうで、彼が考えている気配がした。入る理由を探しているのか、入らない理由を探しているのか。どちらにしても、扉一枚を挟んで真剣に悩む内容としては少し可笑しい。
「……いい」
それだけ言って、足音は遠ざかった。
私は扉を見つめ、少しだけ首を傾げた。何かいるか、と聞きに来て、入らずに帰る。用件は物資の確認だったのだろう。たぶん。記録には、カルロス様、診療所の前で立ち止まる、とだけ書いておく。原因はまだ不明。
翌朝、診療所へ行くと、暖炉が新しく直されていた。
昨日まで煤で黒ずみ、火の回りが悪かった古い暖炉が、きれいに掃除され、割れた石も替えられている。火を入れると、部屋の奥まで柔らかく暖まった。
机の上では白狐が満足そうに丸くなっている。
「あなたが頼んだわけではありませんよね」
白狐は目を閉じたまま、尾だけを揺らした。
私は暖炉の前に立ち、しばらく炎を見た。
カルロス様は、相変わらず何も言わない。けれど、この部屋は確かに暖かくなっていた。




