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婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


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第10話 なぜそんなことができるか

 診療所の暖炉が直ったその日、患者は十二人来た。


 最初は三人だったはずなのに、昼前には廊下に椅子が並び、午後にはジルドが番号札の代わりになる木片まで用意してくれた。


 熱のある子ども、手の傷が腫れた職人、夜になると胸が苦しくなる女性。


 症状も年齢もばらばらで、共通していたのは、誰も自分の不調を大したことではないように話すことだった。


「昔からです」


「働けないほどではありません」


「冬になれば、みんなこんなものです」


 前世でもよく聞いた言葉だ。具合が悪い状態に慣れてしまうと、人はそれを生活の一部にしてしまう。


 けれど、慣れたからといって体への負担が消えるわけではない。


 私は一人ずつ話を聞き、できることを伝えた。傷は洗い、腫れの範囲を墨で囲って広がらないか確かめてもらう。


 胸が苦しくなる女性には、寝る姿勢と部屋の換気を変えてもらう。熱のある子どもには水分を取らせ、無理に食べさせず、息が速くなったらすぐ知らせるよう母親に頼んだ。


 魔法なら、手をかざして終わるのかもしれない。


 私の方法は、ひどく手間がかかる。尋ねて、見て、触れて、記録し、もう一度考える。しかも、すぐに治るとは限らない。


 それでも帰り際の顔が少し緩むのを見ると、疲れより先に次の人を呼んでしまう。


 最後の患者を送り出した頃には、窓の外が暗くなっていた。


 肩が重い。指先には薬草の匂いが染みつき、腰も少し痛い。前世の薬局にあった高さを変えられる椅子が、今ほど恋しい日はない。


「十二人」


 背後から低い声がして、私は振り返った。


 診療所の入口にカルロス様が立っていた。いつからいたのかわからない。


 扉の枠に片手を置き、棚に並んだ薬包や、使い終えた布や、開いたままの帳面を眺めている。


「はい。今日は十二人です」


「疲れないのか」


「疲れます」


 正直に答えると、カルロス様の眉がわずかに動いた。


「ですが、楽しいので」


 今度は完全に黙られた。


 言葉の選び方を間違えただろうか。人の病を診るのが楽しいと言えば、たしかに少し危険な人物に聞こえる。私は慌てて付け加えた。


「病人がいることを喜んでいるわけではありません。原因を探して、昨日より少し楽になったと聞けるのが嬉しいんです」


 カルロス様は、しばらく私を見ていた。


「なぜ、そんなことができる」


 問いの意味がすぐにはわからなかった。


 十二人を診たことか。魔力を使わずに薬を選ぶことか。それとも、疲れているのに楽しいと言ったことか。


「魔力がないので、別の方法を考えるしかなかったんです」


 私は帳面を閉じた。


「ないものを待っていても増えませんから。観察して、記録して、前と違うところを探します。時間はかかりますが、何もできないわけではありません」


 カルロス様の視線が、私の手元へ落ちた。


 薬草を刻み続けたせいで、指先が少し赤くなっている。今さら隠しても遅いので、そのまま両手を膝の上に置いた。


「無理をするな」


「気をつけます」


「気をつける顔ではない」


 思わず彼を見上げた。


 相変わらず無表情だが、冗談ではないらしい。私は自分がどんな顔をしているのか考えた。たぶん、次に診る人のことを考えている顔だ。


「では、休めと言われたら休みます」


「今、言った」


「承知しました」


 即答すると、カルロス様はわずかに目を細めた。


 その夜、私は初めてカルロス様と二人だけで夕食を取った。


 これまでも同じ食卓にはついていたが、ジルドが控えていたり、騎士が報告に来たりして、完全に二人きりになることはなかった。


 今日は使用人が料理を運び終えると、扉の外へ下がった。


 広い食堂に、匙が皿へ触れる音だけが響く。


 食卓には、根菜と鶏肉を煮込んだスープ、焼きたてのパン、香草を混ぜた卵料理が並んでいた。どれも湯気が立っている。


 カルロス様は冷める前に食べる人らしく、口数は少ないが匙を運ぶ手は早い。


 私もスープを口にした。


 鶏の出汁と根菜の甘みがよく出ていた。塩は少し強いが、冷えた体にはちょうどいい。


 暖炉の火と温かい食事のおかげで、診療所に置いてきた疲れが少しずつほどけていく。


「美味しいです」


 何気なく言うと、カルロス様の手が止まった。


「そうか」


 たった二文字なのに、妙に重かった。


 私は匙を置いた。


「何かおかしなことを言いましたか」


「いや」


 否定は早かったが、彼の視線はスープへ落ちたままだった。


 しばらくして、カルロス様が口を開いた。


「前の妻は、ここの食事が口に合わないと言っていた」


 前の妻。


 イリスという名だったはずだ。嫁いで半年で亡くなった女性。町では、死神領主のそばにいたから死んだと噂されている。


 初めて彼の口から、その人の存在が出た。


「王都には、温かいものを食べる習慣がありませんし……使う食材も味つけも違いますから、慣れなかったのかもしれませんね」


「お前は違うのか」


「私は美味しいと思います。……少しだけ、懐かしい気も致します」


 答えると、カルロス様はまた黙った。


 なぜそこまで意外そうにされるのだろう。確かに侯爵家の食卓と比べれば質素だが、温かく、きちんと手がかけられている。


 少なくとも、婚約破棄状と一緒に出された冷たい紅茶より、こちらの方がずっといい。


「それに、温かい食事は助かります。診療所にいると、食べる時間を忘れがちなので」


「忘れるな」


「気をつけます」


「またそれか」


 低い声に、わずかな呆れが混じった気がした。


 石像にも呆れる機能があるらしい。発見である。


 私は笑いそうになるのをこらえ、スープをもう一口飲んだ。


「暖炉も、ありがとうございました」


 カルロス様の視線が上がった。


「診療所の暖炉です。今朝、直っていました」


「寒そうだったので」


 それだけだった。


 恩を着せるでもなく、私のためだと言い切るでもない。ただ事実を述べるような声だった。


 けれど、その言葉は温かいスープよりゆっくり胸へ落ちた。


 寒そうだったから直した。


 そんな理由で何かをしてもらった記憶が、私にはほとんどない。侯爵家では、必要なものは身分に応じて与えられた。


 婚約者から届く贈り物も、季節と慣例に従ったものだった。そこに私が寒そうだったかどうかは、たぶん関係なかった。


「ありがとうございます」


 改めて言うと、カルロス様は少しだけ顔を背けた。


「領民の健康の回復は領主の務めでもある。……ただ、それだけだ」


「はい。それでも、嬉しかったです」


 今度こそ彼は何も答えなかった。


 食事を終え、私は席を立った。食堂を出ようとした時、壁際の棚に見慣れないものが置かれているのに気づいた。


 小さな硝子瓶がいくつも並び、それぞれに乾燥した葉や花が詰められている。細い匙、茶こし、湯を注ぐための器まで、丁寧に一式揃っていた。


 使われている様子はない。けれど埃はなく、誰かが今も手入れをしている。


 私は足を止めた。


 その一番端の瓶から、かすかに青臭い香りがした。


 水路の上流で嗅いだ、鉄に似た匂いが、一瞬だけ記憶の底から浮かび上がった。


「カルロス様」


 呼びかけると、彼の顔から初めて、はっきりと色が消えた。


「あのハーブティーは、カルロス様のものですか?」


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