第11話 ハーブティーの棚と、加熱の習慣
「あのハーブティーは、カルロス様のものですか?」
私が尋ねると、カルロス様は食堂の入口で足を止めた。
壁際の棚には、乾燥した葉や花を詰めた硝子瓶が整然と並んでいる。
夕食の灯りを受け、薄い琥珀色の瓶や淡い緑の葉が静かに光っていた。
使われていないように見えるのに、埃はない。誰かが今も手入れをしている。
カルロス様は棚を見たまま、しばらく答えなかった。
「前妻のものだ」
イリス・ダンヴァル。
町で名前だけは聞いていた。カルロス様のもとへ嫁ぎ、半年で亡くなった女性。
彼のそばにいたから死んだのだと噂され、死神領主という呼び名を決定的にした人。
私は棚へ近づいた。
「お茶を作る方だったんですか」
「王都では、茶葉や薬草を合わせる技術を評価されていた。貴族の間では、ティーマイスターと呼ばれていたらしい」
らしい、という言い方が少し気になった。
夫婦であったなら、もっと身近に知っていてもおかしくない。けれど、白い結婚を申し出た人が、前の結婚で普通の夫婦だったとも限らない。
「イリスさんとは、どのようなご関係だったんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。診察なら必要な質問だが、これは診察ではない。とはいえ、一度踏み込んでしまったからには、聞かずに終えるのも難しかった。
カルロス様は嫌な顔をしなかった。元から表情が乏しいので、嫌な顔をしても判別が難しいだけかもしれないが。
「遠縁の血筋だった。幼い頃から知っている。妹のようなものだった」
「えっ、恋愛で結ばれたわけではなかったんですか?」
「違う」
否定は短く、迷いがなかった。
イリスさんには持病があり、社交界で婚姻相手を見つけるのが難しかった。
カルロス様は領主として後継者を求められていたが、自分の周囲で人が亡くなることを恐れ、結婚を避けていた。
そこでイリスさんの方から、互いの立場を守るためだけの婚姻を提案したのだという。
形式上の結婚。
私と同じ言葉なのに、胸のどこかがわずかに引っかかった。別に嫉妬ではない。むしろ、心の何処かでほっとしたような気がした。
まだそんな段階ではないし、比較する理由もない。
ただ、自分が知らなかったカルロス様の時間が、この棚の上に形を残しているのだと思っただけだ。
「半年で亡くなったと聞きました」
「ああ」
カルロス様の声が低くなる。
「もともと体が弱かった。だが、最後の一月で急に悪くなった」
「症状は覚えていますか」
薬師の質問に変わった途端、私は少し呼吸がしやすくなった。
「疲れやすくなり、食べられなくなった。足が痺れると言っていた。腕や脚に痣が増え、わずかな傷も治らなかった」
私は棚から視線を外し、カルロス様を見た。
疲労、食欲低下、末梢の痺れ、皮下出血、創傷治癒の遅延。
前世の知識では、複数の栄養障害が重なった時に現れうる症状だ。けれど、ここで断定はできない。もともとの持病が何だったのかもわからないし、食生活も確認していない。
「亡くなる前、何か変わったことは」
「最後の一月は、ずっと何かを調べていた」
「何をですか」
「わからない。聞いても、まだまとまっていないと言った。最後まで話さなかった」
カルロス様の声には、怒りよりも、自分を責め続けた人の重さがあった。
「手記が部屋に残っている」
「読んでいないんですか」
「ああ」
「なぜ」
「読めば、俺のせいで死んだと書かれている気がした」
その言葉は、静かすぎて、かえって胸に残った。
私はすぐに否定しなかった。根拠もなく「あなたのせいではありません」と言うのは簡単だが、簡単な言葉で長年の罪悪感が消えるなら、彼はとっくに誰かに救われている。
「いつか、確認させてください」
「何のために」
「イリスさんが何を調べていたのか知るためです。亡くなった原因がわからないままなら、同じことが別の人に起きる可能性があります」
カルロス様は私を見た。
「俺を責めないのか」
「責める材料がありません」
私はそのまま答えた。
「材料がないのに結論を決めるのは、診断ではなく思い込みです」
彼の目がわずかに揺れた。
その時、戸棚の奥から微かな匂いが流れてきた。
乾燥させた花の甘い香りに混じって、青臭さがある。さらに、その奥に鉄を濡らした時のような匂いがほんの少し残っていた。
水路の上流で感じたものと似ている。
私は棚の端へ手を伸ばしたが、どの瓶から漂っているのかまではわからなかった。香りが重なりすぎている。
瓶の蓋も閉じられているため、今ここで一つずつ開ければ、中身を混同させる恐れがある。
「この棚は、亡くなってから触られていませんか」
「ジルドが掃除をしている。中身は動かしていないはずだ」
私はノートを取り出し、棚の位置と匂いを記録した。
青臭く、鉄に似た匂い。水路上流と類似。出所不明。
まだ繋げてはいけない。ただ、妙に気になった。
「イリスも、この茶を気に入っていた」
カルロス様が棚の中央にある瓶を見た。細長い葉と、小さな白い花が混ぜられている。
「よく飲んでいたんですか」
「最初は毎日。だが、途中から飲まなくなった」
「理由は聞きましたか」
「味が変わった気がすると言っていた。俺には違いがわからなかった」
味が変わった。
その言葉が、細い棘のように頭へ残った。
翌朝、食堂へ入ると、カルロス様はすでに薬草茶を飲んでいた。
湯気が高く上がっている。彼はすぐには口をつけず、熱さを確かめながら少しずつ飲んでいた。
私は自分の席に着く前に、茶器へ目を向けた。
「その薬草茶は、いつも温めて飲むんですか」
「茶は温めるものだろう」
「冷ましたものや、水出ししたものは?」
「飲まない」
「それはいつからですか」
カルロス様が怪訝そうに私を見る。
「子どもの頃からだ。冷たいものが苦手なんだ。必ず温める」
「食事も、いつも熱いものを?」
「そうだ。冷めたものは好まない」
私は席に着き、ノートを開いた。
カルロスの習慣――飲食物はすべて加熱済み。幼少期から継続。要記録。
なぜ気になるのか、自分でもまだ説明できない。
イリスが途中から飲まなくなった茶。水路で感じた青臭い鉄の匂い。そして、カルロス様だけが徹底して温かいものを口にする習慣。
無理に繋げれば、見たい答えを作ってしまう。今は記録だけでいい。
ノートを閉じると、足元に柔らかな重みが触れた。
白狐が私の靴へ体を寄せ、当然のように丸くなっている。
「いつの間に入ったんですか」
白狐は金色の目を細めた。
向かいでは、カルロス様が匙を止めてこちらを見ていた。
「その狐は、誰にも懐かないはずだ」
ジルドの声が、食堂の入口から静かに落ちた。
「時折領内で見かけることはありましたが、前の奥様にも、閣下にも、一度も近づきませんでした」
私は足元の白狐を見下ろした。
白狐は私の靴に頬をつけたまま、今度はカルロス様の方を見た。




