第12話 クオとカルロス
白狐は、カルロス様を見ていた。
私の靴に頬をつけたまま、金色の目だけを向かいの席へ向けている。
朝食の席に狐がいること自体、侯爵家なら使用人が総出で追い出す騒ぎになっただろう。けれど、この屋敷では誰も動かなかった。
正確には、動けなかったらしい。
「時折領内で見かけることはありましたが、前の奥様にも、閣下にも、一度も近づきませんでした」
食堂の入口に立つジルドの声は、驚きを抑えきれていなかった。
「人を避ける狐なのですか」
「人に慣れ親しまないどころか、犬や馬にも近づきません。姿を見せるだけでも珍しいのです」
そう言われて足元を見ると、白狐は当然のように私の靴へ体重を預けていた。
矢傷を治療したから懐いたのだと思っていたが、どうやら治療費として居場所を徴収されているだけではなかったらしい。
「この土地の古い伝承では、白狐はクオと呼ばれています。土地を見守るもの、という意味だそうです」
「では、あなたはクオですね」
呼びかけると、白い尾が一度だけ床を叩いた。
返事と受け取っていいのかもしれない。
都合よく解釈するのは診断では避けるべきだが、名前に関しては本人が抗議しないなら採用でいいのかしら。
クオはゆっくりと立ち上がった。
怪我をした右後ろ足はまだ少し浮かせている。それでも歩みは昨日より安定していた。私の椅子を回り込み、食卓の下へ入っていく。
向かった先は、カルロス様だった。
カルロス様の匙が止まった。
クオも止まった。
一人と一匹が、食卓の下で向き合っている。死神領主と土地神の使い。
字面だけなら壮大だが、実際には長身の伯爵が椅子の上で固まり、白狐がその靴先を嗅いでいるだけである。
「……どうすればいい」
カルロス様が低い声で聞いた。
これまで聞いた中で、いちばん困っている声だった。
「動かなければ大丈夫です」
「噛まないか」
「私には噛みませんでした」
「俺には」
「まだ統計がありません」
カルロス様は黙った。ジルドがわずかに顔を伏せたのは、笑いを隠したのだと思う。
クオは靴の周囲を一度回り、それから前足を折った。白い頭が、黒い革靴の上へ静かに乗る。
カルロス様は息まで止めたように見えた。
「重くありませんか」
「いや」
「では、そのままで」
「いつまでだ」
「クオが満足するまででしょうか」
たいへん曖昧な処方になった。
しばらくすると、カルロス様の右手がわずかに動いた。触れていいのか迷っているらしい。私はクオの耳と尾を見た。警戒している様子はない。
「頭なら、ゆっくり触れても大丈夫だと思います」
「思う、か」
「絶対と言うと、噛まれた時に困りますので」
彼は慎重に手を伸ばした。
大きな手が白い頭に触れる。クオは逃げず、むしろ目を細めた。指先が耳の後ろを一度撫でると、白い尾が床をゆっくり掃いた。
その時、カルロス様の顔が変わった。
笑ったわけではない。けれど、眉間にいつもあった固さが消え、灰色の目がわずかに明るくなった。二十八歳の領主ではなく、初めて動物に触れた少年のように見えた。
ほんの一瞬だった。
カルロス様は私の視線に気づくと、すぐにいつもの無表情へ戻った。
「何だ」
「いいえ。クオが嫌がっていないか見ていました」
嘘ではない。全部でもないけれど。
死神伯爵が白狐に靴を占領されて困っていた、とは記録しないでおこう。記録は正確であるべきだが、本人の尊厳にも適量というものがある。
朝食のあと、私は診療所へ戻った。
患者は昨日より少なかったが、薬草の整理に時間がかかった。乾燥させた葉や根、花、樹皮を効能と注意点ごとに分ける。ところが、もともと応接室にあった棚は奥行きが浅く、小瓶を二列に置くと後ろの札が見えない。
手を伸ばした拍子に、乾燥葉の包みが一つ落ちた。
「この棚、もう少し広ければ助かるのですが」
独り言を言いながら包みを拾う。
返事の代わりに、窓辺で寝ていたクオが片目を開けた。もちろん棚は広がらない。土地神の使いでも家具の寸法までは変えられないらしい。
私は小瓶の並びを入れ替え、ひとまず使える形に収めた。
翌朝、診療所の扉を開けた私は、その場で止まった。
壁一面に、新しい薬草棚が置かれていた。
昨日までの細い棚より奥行きがあり、高さの違う瓶を分けて置ける。引き出しには乾燥薬草、布、器具を収められ、下段には大きな壺まで入った。木材は新しく、まだ削った香りがする。
私はしばらく扉を握ったまま、棚を見た。
暖炉の次は、薬草棚。
偶然にしては、私の困り事へ正確に効きすぎている。
廊下を通りかかったジルドを呼び止めた。
「この棚は、いつ運ばれたんですか」
「昨夜でございます」
「どなたの手配でしょう」
「閣下のご指示です」
予想していた答えなのに、言葉が一拍遅れた。
「カルロス様は、棚が狭いとご存じだったんですか」
「さあ。私からは何も申し上げておりません」
ジルドはそれだけ言うと、いつもの穏やかな顔で頭を下げた。
私は新しい棚へ指を触れた。表面は丁寧に磨かれ、ささくれ一つない。必要だから用意した。それだけだと言われるのだろう。暖炉の時と同じように。
けれど、必要だと気づくには、見ていなければならない。
その日の午後、薬草を運んできた騎士団長と初めてきちんと挨拶をした。
エドワードという名で、三十代半ばほど。頬から顎にかけて古い傷があり、物静かな人だった。大きな木箱を一人で抱えているので、棚の耐久試験まで同時に始まりそうである。
「こちらでよろしいですか」
「はい。重いものは下段へお願いします」
エドワードは箱を置き、新しい棚を一度見た。それから何も言わず、ジルドとともに廊下へ出ていった。
私は薬草の確認を始めたが、扉が完全には閉まっていなかった。
「閣下が薬草棚を新調されたのは、なぜですか」
廊下から、エドワードの低い声が聞こえた。
「さあ。ただ、昨日、奥様が棚が少し狭いと独り言をおっしゃっていた、と」
短い沈黙が落ちた。
「……そうですか」
エドワードはそれ以上聞かなかった。
私は手にしていた薬草の束を、棚へ置き損ねそうになった。
独り言を聞かれていた。
いつ、どこで、とは考えないことにする。あの人は気配が薄いわけではないのに、なぜか必要な時だけ静かに現れる。死神という異名は、そういうところから生まれた可能性も少しある。
夕方、帳面を届けるために執務室へ向かった。
扉は開いており、カルロス様は机に向かっていた。書類が何段にも積まれ、灯りをつけるにはまだ早い時間なのに、彼の顔色はひどく白く見えた。
私が入っても、すぐには気づかない。
指先でこめかみを押さえ、目を閉じている。朝食の席でクオに触れていた時とは、まるで別人だった。
「カルロス様」
呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。
「何だ」
「薬草棚を、ありがとうございました」
「たまたま新調しようと思っていただけだ」
やはり、予想通りの答えだった。
けれど、声が少し掠れている。目の下には薄い影があり、机の端の茶は手つかずのまま冷めていた。
私は帳面を机へ置き、彼の顔を改めて見た。
領民の不調ばかり見ていて、いちばん近くにいる人を見落としていたのかもしれない。
「カルロス様」
「まだ何かあるのか」
「あなたも、病んでいませんか」




