第13話 あなたも病んでいる
「あなたも、病んでいませんか」
私がそう尋ねると、カルロス様はしばらく動かなかった。
執務机の上には、封を切っていない書状と、途中まで目を通したらしい報告書が積まれている。冷めた薬草茶の表面には薄い膜が張り、窓の外はもう夕暮れだった。
「問題ない」
予想していた答えが返ってきた。
「問題ない、というのは、問題を感じなくなっているだけかもしれません」
「どういう意味だ」
「具合の悪い状態が長く続くと、人はそれを普通だと思うようになります。領民の方々も、咳や息切れを『昔からだから』と片づけていました。カルロス様も同じ顔をしています」
「顔でわかるのか」
「顔色と目の下と、冷めたお茶でわかります」
私は机の端に置かれた茶器を見た。
いつも温かいものしか口にしない人が、茶を冷めるまで放置している。少なくとも、普段どおりではない。
カルロス様は茶器へ視線を落とし、わずかに眉を寄せた。
「仕事をしていただけだ」
「昨日も、その前の日もですか」
「領主の仕事だ」
「領主には睡眠が不要なのですか」
「必要だ」
「では、昨夜は何時間眠りました?」
沈黙が落ちた。
答えがない時点で、十分な回答だった。
私は診療所から持ってきた小さな鞄を机へ置いた。薬草棚のお礼を言うだけのつもりだったので、診察道具まで使う予定はなかった。
けれど、念のため持ち歩いていた自分を褒めたい。前世でも、必要な時に限って体温計が見つからないことはよくあった。
「一度、診せてください」
「必要ない」
「必要があるかどうかを確認するために診ます」
「俺は病人ではない」
「病人はだいたい、最初にそう言います」
カルロス様は黙った。
私は黙り返した。
こういう時、先に目を逸らした方が負ける気がする。診察に勝敗を持ち込むべきではないが、頑固な患者には頑固な薬師が必要なこともある。
やがて彼は、深く息を吐いた。
「何をすればいい」
「まず座ったままで結構です。手を出してください」
差し出された右手を取り、手袋を外してもらう。
大きな手だった。剣を握る人らしく、掌には硬い部分がある。冷えてはいないが、指先に少し力が入りすぎていた。
私は手首へ指を当てた。
脈はやや速い。乱れは大きくない。仕事を中断させられた不満か、診察への緊張か、単純な疲労か。この時点では決められない。
「少し速いですね」
「お前が急に手を取るからだ」
「診察です」
「わかっている」
声がいつもより低かった。
顔を上げると、思った以上に近い位置にカルロス様の顔があった。机越しではなく、椅子の脇へ立って手首を取っているのだから当然である。
灰色の目が、まっすぐ私を見ていた。
顔色を確かめるには都合がいい。私は目の下の影と唇の色を見て、次に下瞼を少し下げてもらった。
「貧血は強くなさそうです。頭痛はありますか」
「時々」
「めまいは」
「立ち上がった時に、たまに」
「食欲は」
「ある」
「朝食を残していました」
カルロス様がわずかに目を細めた。
「見ていたのか」
「同じ食卓にいましたので」
考えてみれば、私は最近この人の食事をかなり観察している。薬師として必要だからであって、決して趣味ではない。念のため心の中で言い訳しておく。
「胸が苦しくなることは?」
「ない」
「眠っても疲れが取れないことは?」
今度は、答えが遅れた。
「……ある」
「どのくらい前からですか」
「覚えていない」
覚えていないほど前から、ということだ。
私は手首から指を離し、今度は肩と首の動きを確認した。首を回してもらうと、途中でわずかに止まる。
肩の筋肉も固い。長時間同じ姿勢で机に向かい、夜も浅い眠りを繰り返している人の体だった。
「検査をしたわけではありませんので可能性がないとは言い切れませんが、診察の範囲内では、今のところ大きな病が隠れているとは思いません」
そう言うと、カルロス様の肩から少しだけ力が抜けた。
「ですが、慢性的な疲労がかなり溜まっています。このまま無理を続ければ、いずれ倒れます」
「倒れたことはない」
「倒れるまで続けていいという意味ではありません」
「休んでいる間に、仕事が止まる」
「カルロス様が倒れれば、もっと長く止まります」
言い返されると思ったが、彼は黙った。
窓の外で風が鳴り、机の書状が一枚だけ揺れた。領地のこと、視察の準備、物資の手配、診療所の棚。誰かに任せるより、自分で抱え込む方が早いと思っているのだろう。
けれど、早く走れる人ほど、止まり方を知らない。
「あなたは、長い間、無理をしています」
私が言うと、カルロス様は視線を逸らした。
「領主なら当然だ」
「当然ではありません」
「俺がやらなければ、誰がやる」
「ジルドさんも、エドワードさんもいます。領民の方々も、今は動いてくれています。全部を一人で抱える必要はありません」
「結果が出なければ、責任は俺にある」
その言葉で、ようやくわかった。
彼は休めないのではない。休むことを、自分に許していない。
水路を直せなかったこと。病人を救えなかったこと。イリスを亡くしたこと。自分の周囲で人が死ぬたび、足りなかった時間も知識も、すべて自分の責任として抱え込んできたのだ。
私は診察鞄を閉じた。
「責任を持つことと、自分を壊すことは別です」
カルロス様の目が戻ってくる。
「今夜は仕事を切り上げてください。温かい食事を取り、湯を使って、できるだけ早く眠ること。明日の朝食も抜かないでください」
「命令か」
「処方です」
「従わなければ?」
「毎日、診察に来ます」
さすがに嫌だったらしい。カルロス様の眉間に、見慣れた皺が戻った。
「それは……脅し……なのか?」
「治療方針を説明しています」
「同じことだ」
少しだけ声に呆れが混じっていた。
私はそれを回復の兆候として扱うことにした。
立ち上がろうとした時、カルロス様がふいに言った。
「イリスとは、こういう会話をしたことはなかった」
私は動きを止めた。
「気を遣う人だったんですね」
「ああ。病が進行していても、何も言わなかった。彼女が俺に何かを頼むこともなかった」
だから気づけなかった。
続きは口にされなかったが、聞こえた気がした。
「私は必要なことは言います」
「知っている」
「休んでくださいとも言いますし、薬草棚が狭いとも独り言で言います」
カルロス様の視線が一瞬泳いだ。
どうやら、聞いていたことを気にしてはいるらしい。
「あなたは違う」
静かな声だった。
比較されたことに腹は立たなかった。むしろ、その言葉には安堵に近いものが含まれているように聞こえた。
「はい。私はイリスさんではありません」
「ああ」
「ですから、同じように接する必要もありません」
カルロス様はしばらく私を見た。
「……そうだな」
その返事は、白い結婚を告げた人のものより、少しだけ柔らかかった。
私は執務室を出る前に、冷めた薬草茶を指した。
「それはもう、飲まなくていいですよ。新しいものを用意してもらいます」
「……まだ飲める気がする」
「温かいものしか飲まない方が、冷めた茶に執着しないでください」
扉の外にいたジルドが、かすかに咳払いをした。今度は明らかに笑いを隠している。
カルロス様は何も言わなかったが、私が部屋を出る時には、書類から手を離していた。
翌朝、彼は食堂にいた。
目の下の影はまだ消えていない。それでも、昨夜より顔色はましだった。前には湯気の立つスープと、手をつけた跡のあるパンが置かれている。
「眠れましたか」
「五時間」
「不足していますが、昨日よりはましです」
「毎朝聞くのか」
「必要がなくなるまでは」
カルロス様は諦めたように匙を取った。
その時、食堂の扉が勢いよく開いた。
泥のついた作業着姿のエドワードが立っていた。普段ほとんど表情を変えない彼が、珍しく息を弾ませている。
「閣下、奥様。水路の最終区画がつながりました」
私は立ち上がった。
何年も淀んでいた水路が、ようやく一本につながった。
エドワードは一度息を整え、それから続けた。
「明朝、水門を開きます。水が町まで届くかどうか、そこでわかります」




