第14話 水路が変わる日
水門が開く朝、町はまだ薄い霧の中にあった。
夜明け前だというのに、水路の脇には人が集まっている。
職人、騎士、荷運びを手伝った領民たち。腕を組んで黙っている者もいれば、落ち着かずに石組みを何度も覗き込む者もいた。
私も同じだった。
上流の死骸を撤去し、動物が再び入り込まないよう柵を設け、泥をさらい、割れた石を組み直した。
けれど、工事が終わったことと、水が正しく流れることは別である。薬を調合し終えても、飲むまでは効き目がわからないのと似ている。
もっとも、水路に服用方法を説明する必要がないだけ、少しは楽かもしれない。
「奥様、こちらへ」
ジルドに呼ばれ、私は水門から少し離れた高台へ移動した。足元にはまだ新しい土が盛られ、朝露を含んで黒く光っている。
カルロス様は水門のそばに立っていた。
濃紺の外套の下に作業着を着ている。領主が自ら泥だらけになる必要はないはずだが、この数日、彼は修繕の進み具合を何度も見に来ていた。
休むよう処方した身としては複雑である。五時間眠ったから働いてよい、という薬は処方していない。
ただ、今の彼の顔色は昨日よりましだった。
診察するには遠いが、少なくとも倒れそうには見えない。私はひとまず注意書きを心の中へしまった。
「準備が整いました」
エドワードが報告する。
ジルドは水路の先へ目を向けた。町まで続く石の溝には、まだわずかな残り水しかない。
何年も淀み、泥と腐敗臭を抱えていた道だ。
「開けてください」
カルロス様の声が落ちた。
職人たちが綱を引く。湿った木が軋み、重い水門が少しずつ持ち上がった。
最初に流れ出した水は、土を巻き上げて濁っていた。
見守っていた人々の間に不安が走る。けれど、これは想定内だ。水路の底に残っていた細かな泥が、新しい流れで押し出されている。
「まだ触らないでください。最初の水は流し切ります」
私が声を上げると、コリンが伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
「見てたの?」
「見ていました」
「後ろ向いてたのに」
「子どもが水に手を入れそうな気配が、なんとなくわかりました」
もちろん半分は勘である。だが、コリンは納得したらしく、祖父の隣でおとなしく待った。
濁った水が町の外へ抜けていく。
その後ろから、色の薄い水が続いた。朝の光を受け、水面が細かく揺れる。
石組みの間で音を立て、曲がり角を越え、今まで水の動かなかった区画へ流れ込んでいく。
水音がした。
ほんの小さな音なのに、町じゅうが息を止めたように静かになった。
水は止まらなかった。
細くなりながらも、次の区画へ、その次の区画へ進んでいく。職人たちが並行して走り、継ぎ目から漏れていないか確かめる。
ジルドが声を飛ばし、エドワードが騎士を分けて下流へ向かわせた。
やがて、町の広場にある水場へ澄んだ流れが届いた。
誰かが息を呑んだ。
井戸水のように完全に透明ではない。それでも、以前の薄い膜も、淀んだ匂いもない。器ですくえば底が見える水だった。
コリンの祖父が、杖をついたまま水路の脇へ近づいた。
「こんな水は、わしが子どもの頃以来だ」
掠れた声だった。
その横で、コリンが私を見た。
「もう触っていい?」
「少しだけなら。飲むのは、検分が終わってからです」
返事を聞くより早く、コリンは指先を水へ入れた。
「冷たい!」
驚いた声のあと、笑い声が弾けた。
周囲の大人たちも笑った。誰かが泣きながら笑い、誰かが職人の背中を叩いた。
ジルドは一度だけ目元を押さえ、それから何事もなかったように作業の指示を続ける。
私は流れる水を見つめた。
私がしたのは、詰まりの場所を見つけ、危険を伝え、必要な対処を考えたことだけだ。
死骸を運び出したのも、石を積み直したのも、重い水門を修理したのも私ではない。
それでも、自分の見立てが誰かの手を通り、目の前の流れになったことが嬉しかった。
薬師の仕事は、薬包を渡したところで終わるのではない。飲んだ人が眠れたと知り、傷が塞がるのを確かめて、初めて胸の奥へ届く。
水路も同じだった。
考えたことが形になり、形になったものが人の暮らしへ流れ込んでいく。
私は人垣の向こうにカルロス様を見つけた。
彼は少し離れた場所に立ち、歓声の中へ入ろうとはしていなかった。
いつもの無表情で水路を見ている。けれど、握っていた手はもう強く閉じられていなかった。
私は人々の間を抜け、彼の隣へ立った。
「何年も、変えようとしていたんですね」
カルロス様は水を見たまま答えた。
「……結果は出なかった」
「方法が合わなかっただけです」
「死んだ人は戻らない」
短い言葉だった。
澄んだ水の音が、かえってその重さをはっきりさせた。
私は安易に過去を消す言葉を選ばなかった。亡くなった人は戻らないし、間違った試みで苦しんだ人がいたことも変えられない。
「でも、試みていたことは伝わっています」
カルロス様がこちらを見た。
「少なくとも、ジルドさんにも、エドワードさんにも。昨日の老人にも。だから今日、これだけの人が集まったんだと思います」
「俺のためではない」
「はい。自分たちの暮らしのためです」
私は流れる水へ目を戻した。
「けれど、見捨てた領主のために、こんなに長く一緒に働く人はいません」
カルロス様は答えなかった。
視線だけが、しばらく私の横顔に残っていた。気づかないふりをしていたが、朝の光の中では少し難しい。
こちらが振り向けば、たぶん彼は先に目を逸らす。
だから私は、水を見たままでいた。
やがて背後からジルドの声がした。
「閣下、よかったですね」
カルロス様はやはり答えなかった。
ただ、灰色の目は、初めて会った日の深い井戸のような暗さではなかった。
夕方、私はもう一度水路を見に行った。
検分を終えた区画では、領民たちが桶へ水を汲んでいる。しばらくは煮沸を続けてもらうが、あの淀んだ水を使わずに済むだけでも大きい。
水路の脇にはクオがいた。
包帯の取れた右後ろ足でしっかり立ち、流れる水をじっと見ている。以前は問題のあった上流の方角から目を離さなかったのに、今日は町の外へ続く流れの先を見ていた。
「何か変わりましたか」
クオの尾が一度だけ揺れた。
返事のようにも見えた。
私はクオの隣にしゃがみ、水路の向こうへ目を向けた。澄んだ水は畑の近くまで届き、その先で細い支流に分かれている。
けれど、畑の土はまだ白く乾き、芽は細いままだ。
水が変わっても、弱った土がすぐに戻るわけではない。
クオは水路から視線を外し、今度は痩せた畑を見つめた。
そして立ち上がると、私を振り返りながら畑の畔へ歩き出した。
どうやら、次に見るべき場所は決まったらしい。




