第15話 畑と、領民の顔
クオが向かった先は、屋敷にいちばん近い畑だった。
水路から引いた細い支流が畔のそばを流れている。水は澄んでいたが、土はまだ固く、表面には白っぽい筋が残っていた。
芽を出した麦も細く、風が吹くたび頼りなく揺れている。
クオは畑の端で立ち止まり、前足で土を一度掻いた。
「掘れ、ということですか」
白い尾がゆっくり揺れた。
神の使いかもしれない狐から土木作業を命じられるとは思わなかった。
とはいえ、狐に鍬を持たせるわけにもいかないので、私は小さな移植ごてを取りに戻った。
翌朝、リンダと農家の職人たちに集まってもらい、水路に近いところから畑の中央を通り、少し高くなった端まで数か所に印をつけた。
表面だけ眺めても違いはわからないため、それぞれ同じ深さまで掘って土を比べる。
最初の穴は、少し掘っただけで固い層に当たった。
「根がここで止まっているようです」
細い麦を一本抜くと、根は横へ逃げるように曲がっていた。深く伸びるはずの場所を、固い土に塞がれている。
別の穴では、水が抜けず、底の土が冷たく湿っていた。ところが少し離れた場所は、指で崩すと粉のように乾いている。同じ畑の中で、水が溜まる場所と乾ききる場所が分かれていた。
「水が来れば全部よくなると思っていたんだがね」
リンダが腰へ手を当てる。
「水は必要です。でも、土の中へ入らなければ根まで届きません。反対に、一か所へ溜まり続けても根が傷みます」
「じゃあ、どうするんだい」
私は畑全体を見渡した。
「一度に全部は変えられません。まず小さく区切って試します。固い層は深めに起こし、低い場所には浅い排水溝を通します。乾きやすい場所には、よく腐らせた堆肥と落ち葉の土を混ぜます。結果を比べてから、広げましょう」
若い農夫が怪訝そうな顔をした。
「奥様が土を掘るんですか」
「私もお手伝いします。方針も示します……が、畑の扱いは皆さんの方が詳しいです。もしかしたら、土より先に自分の腰を壊す可能性があります」
農夫たちの間から笑いが漏れた。
実際、薬草を刻む腕と畑を耕す腕は別物だ。知識があるからといって、長年の仕事まで横取りできるわけではない。
私は掘る場所と比べる項目を伝え、少し耕し始めたところで、細かい鍬の入れ方や水の逃がし方は職人たちが代わってくれた。
作業が始まると、畑の空気が変わった。
鍬が固い土へ食い込み、重い音が続く。若者が土を返し、年配の農夫が溝の傾きを確かめる。
女性たちは堆肥を運び、子どもたちは小石を拾った。
私は区画ごとの土の色と湿り方を記録し、途中で根を切りすぎないよう声をかける。
もちろん、声をかけすぎると邪魔になる。
「奥様、そこに立っていると土を返せません」
「失礼しました」
早々に作業の中心から追い出された。現場では正しい人より、鍬を持っている人の方が強い。私は畔へ下がり、記録係に徹することにした。
昼近く、リンダが水差しを持って隣へ来た。
「前の奥様とは、全然違うね」
私は手を止めた。
「イリスさんをご存じだったんですか」
「何度か市場で見たよ。綺麗で、薬草にも詳しい人だった。でも体が弱くて、外へ出るだけで疲れていた。あの人は屋敷で茶を作った。あんたは畑まで来て、土まみれの連中と話す。……面白い奥方だ」
比べる声に悪意はなかった。それでも、私は少し考えてから答えた。
「イリスさんには、イリスさんにできることがあったと思います。私は土を掘るより、皆さんに掘ってもらう方が上手なだけです」
「それでも、一緒に動いてくれる」
リンダは畑を見た。
「上から命じて終わりじゃない。失敗したら、自分の見立ても直すつもりでいてくれてるでしょ」
私は返事に迷った。
失敗はしたくない。けれど、一度で正解へ辿り着けるとも思っていない。
前世でも、効かなければ薬を替え、量を見直し、生活を聞き直した。土も人の体も、こちらの都合どおりには動かない。
「間違えたら、修正が必要なのは道理です」
そう言うと、リンダは満足そうに笑った。
午後になり、畑の端が少し騒がしくなった。
見ると、コリンが祖父の腕を支えて歩いてくる。老人は杖をついていたが、以前より背筋が伸びていた。
「来ても大丈夫なんですか」
私が駆け寄ると、老人は笑って胸を張った。
「ずっと寝ている方が体に悪いと、孫に追い出されましてな」
「じいちゃん、自分で行くって言っただろ。人のせいにしないでよ」
「そうだったかな」
咳はまだ残っている。それでも呼吸は以前より深く、話したあとに息を整える時間も短くなっていた。
私は無理をしないことを約束してもらい、日当たりのよい畔へ椅子を置いた。
子どもたちが拾った石を老人の足元へ運び、どの石がいちばん大きいか競い始める。
「これは立派だ。畑より城壁を造った方がよさそうだな」
老人が冗談を言うと、子どもたちが声を上げて笑った。
そのあと、老人も笑った。
初めて見る顔だった。
咳を隠す苦笑でも、期待しすぎないように浮かべる慎重な笑みでもない。
目尻へ深く皺を寄せ、孫の頭を撫でながら、心から楽しそうに笑っていた。
胸の奥が、静かにほどけた。
これが見たかったのだと思う。
病名を当てることでも、薬師として認められることでもない。
眠れなかった人が眠り、外へ出られなかった人が畑へ来て、子どもと同じものを見て笑う。そのために、私は何度でも記録を取り直せる。
帰り道、コリンたちは子ども同士で先を走り、老人はリンダとゆっくり歩いていた。
私は畑の記録を抱え、その後ろを進んだ。ふと丘の上を見ると、カルロス様が立っていた。
視察の途中だったのだろう。エドワードが少し離れて控えている。
目が合った。
カルロス様は先に視線を外した。
私はそのまま歩き出したが、道の脇に溜まった水へ彼の姿が映っていた。ほんの一瞬だけ、こちらをもう一度見てから、今度こそ前を向く。
見なかったことにするべきだろう。
観察した事実をすべて本人へ報告すると、人間関係はたいへん息苦しくなる。
私は水溜まりから視線を外し、記録に残さないことにした。
翌朝、診療所の扉を開けると、薬草の包みが三つ届いていた。
喉を潤す葉、傷に使う根、熱を下げる樹皮。どれも今の診療所で減り始めていたものばかりで、品質もよい。
差出人の名はない。
ジルドに尋ねても、「さあ」と穏やかに答えるだけだった。
匿名の贈り物にしては、必要な品を正確に選びすぎている。暖炉と薬草棚の前例を考えれば、候補はかなり絞られる。
私は包みを棚へ収め、礼を言う相手をひとまず保留にした。
その日の夕方、試験区画の土へ水を入れた。
ほぐした土はゆっくり水を吸い、浅い溝から余分な分だけが流れていく。
すぐに作物が元気になるわけではない。それでも、以前のように表面を滑って一か所へ溜まることはなかった。
畔の向こうを、クオが歩いていた。
老人が息を呑む。
「白狐が畑へ来た。久しぶりだ」
ジルドも、白い姿を見つめていた。
「……本当に、久しぶりですね」
クオは畑の端まで歩くと、土の匂いを確かめるように鼻先を下げた。
やがて顔を上げ、屋敷からこちらへ来るカルロス様を見つける。
クオは私の方へは来なかった。
白い尾を揺らしながら、当然のようにカルロス様の後ろへついて歩き始めた。




