第16話 死神と呼ばれた理由
クオは、朝からカルロス様の後ろを歩いていた。
執務室へ向かえば廊下の角までついていき、庭へ出れば外套の裾から少し離れた場所を進む。
カルロス様が立ち止まるとクオも止まり、振り返ると何事もなかったように草の匂いを嗅いだ。
懐いているというより、見張っているようにも見える。
「気になるんですか」
私が尋ねると、カルロス様は足元の白狐へ視線を落とした。
「何がだ」
「クオがついてくることです」
「放っておけばいい」
そう答えた直後、クオが段差へ前足をかけた。カルロス様は歩調を緩め、怪我をしていた右後ろ足が無理なく上がるのを待ってから先へ進んだ。
言っていることとやっていることが違う。
本人へ伝えると否定されそうなので、私は黙っておいた。カルロス様は優しさを正面から指摘すると、恥ずかしさで引っ込めてしまうことがある。
カルロス様の場合、表情は変わらなくても歩幅が急に広くなる可能性が高い。
私は診療所へ向かい、午前の患者を診た。
水路が直ってから、腹を下す人は少し減った。食事の改善を始めた家では、子どもの顔色もわずかに良くなっている。
ただし、数日で領地全体が健康になるほど体は単純ではない。よくなったように見える時ほど、記録を止めない方がいい。
昼を過ぎた頃、最後の患者を見送ると、扉の外にエドワードが立っていた。
騎士団長が診療所へ来るのは珍しい。怪我をした騎士を運んでくる時でさえ、本人は廊下で待っていることが多い。
「どこか痛みますか」
「診療希望ではありません」
「では、薬草の運搬でしょうか」
「それも違います」
エドワードは扉の向こうを一度確認した。
廊下に人はいない。窓辺ではクオが丸くなっている。カルロス様についていったはずなのに、いつ戻ったのだろう。
土地神の使いには、扉を使わない移動経路でもあるのかもしれない。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
いつもより低い声だった。
私は診療所の扉を閉め、エドワードに椅子を勧めた。彼は座らず、窓の近くへ立った。頬から顎へ続く古い傷が、午後の光で白く浮かんでいる。
「閣下が死神と呼ばれるようになった理由を、奥様はどこまでご存じですか」
「領民の病が改善せず、石や煙を使った試みが儀式に見えたこと。前の奥様が半年で亡くなったこと。その二つだと思っていました」
「それだけではありません」
エドワードは拳をゆっくり握った。
「閣下の近くにいた者が、何人も亡くなっています」
部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
「近くにいた者、というのは」
「側近です。護衛、書記官、領地の交渉を任されていた者。いずれも閣下が信頼していた人間でした」
私は言葉を挟まず、続きを待った。
「戦や襲撃で亡くなったのではありません。昨日まで働いていた者が倒れ、そのまま戻らなかった。時期も場所も違います。医師は病だと言いましたが、病名は一致しなかった。食事も住まいも同じではなく、共通点は閣下のそばで働いていたことだけでした」
「何人ですか」
「私が知る限り、五人です」
思っていたより多い。
五人が偶然に亡くなることはあり得る。年齢も持病もわからない以上、数字だけで意図的なものだとは決められない。
ただ、信頼した相手を五人失った人間が、自分を死神だと思い込み始めるには十分すぎる。
「調査はされたんですか」
「何度も。食事、井戸、薬、持病、直前に会った人間まで調べました。しかし、何も出なかった」
エドワードの声には、長く噛み続けた苦さがあった。
「そのたびに噂だけが広がりました。ダンヴァル伯爵に重用された者は死ぬ。領主が命を吸っている。閣下が夜に水場を調べれば、死者を増やす儀式だと言われた」
思い出した。
初めてこの領地へ向かう馬車で聞いた噂。怪しげな儀式をさせる死神領主。あの言葉の裏には、カルロス様の失敗だけでなく、説明のつかない死が積み重なっていたのだ。
「カルロス様は、その噂を否定しなかったんですね」
「結果がある以上、言い訳はできない、と」
いかにも彼らしい。正しいかどうかは別として、自分を守る説明を嫌う人だ。
「一時期、閣下は誰も近くへ置こうとしませんでした。仕事を抱え、護衛も最低限に減らし、食事まで一人で取った。自分のそばにいなければ死なずに済むと、本気で考えていたのだと思います」
「それで、イリスさんとも距離を」
エドワードが頷いた。
「前の奥様は形式上の妻でした。閣下は必要以上に同じ部屋へ入らず、食事の席も別にすることが多かった。守るために離れたのです」
けれど、イリスは亡くなった。
距離を置いても守れなかった。その事実がカルロス様に何を残したのか、想像するのは難しくなかった。
食堂でイリスの名を口にした時の声。手記を読めなかった理由。自分のせいで死んだと書かれている気がした、という言葉。
あの罪悪感は、前妻一人の死から始まったのではない。
その前から、何度も同じ傷を作られていたのだ。
「エドワードさんは、偶然だと思っていますか」
「いいえ」
答えは迷いなく返ってきた。
「共通点はまだわかりません。ですが、私は偶然だとは思っていないんです」
彼は初めて、まっすぐ私を見た。
「誰かが閣下の周囲から人を奪っている。そう考えた方が、五人の死も前の奥様の死も説明できる気がする。証拠はありません。だから閣下には、何度も考えすぎだと言われました」
「証拠がなければ、カルロス様は動かないでしょうね」
「はい。自分を狙った者がいると考えるより、自分のせいだと考えそうな御方です」
困った悪癖である。
痛みの原因をすべて自分へ集めれば、他人を疑わずに済む。けれど、その代わりに自分を削り続ける。慢性疲労の処方だけでは足りないわけだ。
エドワードは窓辺のクオへ目を向けた。
「白狐が閣下の後を歩いたのを見た時、少しだけ安心しました。この土地が、まだ閣下を拒んでいないように思えたので」
クオは眠っているように見えたが、耳だけがこちらを向いていた。
「奥様が来てから、閣下は変わりました」
「睡眠時間なら、まだ足りません」
「それもありますが」
エドワードの口元が、ほんの少し緩んだ。
「以前は、誰かが自分へ近づくことを避けていました。今は奥様が診療所に遅くまで残っていれば暖炉を直し、棚が狭いと聞けば新しいものを用意する。畑にいれば遠くから見ている」
最後の一つは聞かなかったことにしたい。
「それは領地の仕事を確認しているだけでは」
「いいえ。そうは見えません。おそらく、閣下はレティ様のことが――」
「余計なことは言うな」
診療所の入口から、低い声がした。
いつ開いたのかわからない扉の前に、カルロス様が立っていた。外套の裾に草の種がつき、その足元には、いつの間に移動したのかクオが座っている。
エドワードは表情を消した。
「……失礼しました」
深く頭を下げ、私の横を通って部屋を出ていく。カルロス様は道を譲ったが、その背中を見送る目はかなり冷たい。
エドワードが廊下の角を曲がったあとも、しばらく扉の方を見ていた。
「どこから聞いていましたか」
私が尋ねると、カルロス様の視線が戻った。
「最後だけだ」
「本当ですか」
「……途中からだ」
正直である。少し遅いけれど。
「黙って聞くのは、あまり褒められません」
「俺の話だ」
「それでもです」
「……勝手に人の秘密ごとを話すほうが悪趣味だ」
カルロス様はいつも以上に眉間に皺を寄せ、診療所の中へ入った。クオも当然のようについてくる。
私は帳面の束へ目を向けた。
側近五人とイリス。時期も場所も違い、共通点はカルロス様の近くにいたことだけ。調査しても何も出なかった。
けれど、過去の調査が見落としていたものまで、存在しないとは限らない。
「カルロス様」
「何だ」
「亡くなった側近の共通点を探せるかもしれません」
灰色の目が細くなる。
「どうやって」
私は診療所の帳面を閉じた。
「亡くなった方々の記録を、最初から照合してみます」




