第17話 隣領の問題と、レティが動く
亡くなった側近たちの記録を照合する準備を始めた翌朝、執務室へ泥だらけの騎士が駆け込んできた。
私の前には、ジルドが倉庫から運び出してくれた古い帳面が積まれていた。
五人の名前、勤めていた時期、倒れる直前の仕事。
まずは書式の違う記録を同じ形へ直そうとしていたのだが、騎士の報告を聞いた瞬間、カルロス様は椅子から立ち上がった。
「境界で小競り合いが起きました。隣領の兵が牧草地へ入り、こちらの見張りと衝突しています」
「負傷者は」
「双方に数名。今のところ、死者はいません」
今のところ、という言葉が重かった。
争いの場所は、領地の西端にある細長い牧草地だった。古い境界標が並ぶ土地で、ダンヴァル側の村が長く家畜を放してきたという。
ところが隣領は、数年前の増水で標石が動いたため、牧草地の半分は自領に属すると主張し始めたらしい。
「兵を出す」
カルロス様が短く命じる。
エドワードが頷きかけたが、私は机に広げられた地図へ目を落とした。
境界争いそのものは以前からあったのに、今になって兵まで入ってきた。相手が急ぐ理由があるはずだ。
「武力で解決するしかないのですか」
部屋の視線が一斉に私へ集まった。
カルロス様の眉間に皺が寄る。
「向こうが先に兵を入れた」
「交渉はしましたか」
「使者は二度返された。話す余地がない」
声が冷たい。領民を傷つけられた領主としては当然だろう。
けれど、兵をぶつければ境界標一本の話では済まなくなる。怪我人は増え、畑を立て直すための人手も失われる。
ようやく水路が流れ始めたところで、別の場所から血を流すのは効率が悪すぎる。
「私に試させていただけませんか」
「何を」
「交渉をです」
カルロス様の目が険しくなった。
「却下する」
返事が早い。薬のCMに挟まる注意事項より早かった。
「まだ方法を説明していません」
「説明されても却下する」
「それでは診断前に治療を拒む患者と同じです」
「これは診療ではない」
「承知しています。ですが、相手が欲しいものを確認せずに兵を出すのは、原因を調べず強い薬を使うのと似ています。効くかもしれませんが、害も大きいです」
執務室が静まり返った。
エドワードが口元を引き締めている。笑ってはいないと思う。たぶん。
私は地図の西側を指した。隣領を流れる川は、こちらの水路とは別の山から下りている。近年は水量が落ち、春先には農民同士の揉め事が増えたと古い報告書にあった。
「隣領は水で困っている可能性があります。牧草地が欲しいのではなく、そこを通る細い流れを押さえたいのかもしれません」
「だから奪わせろと?」
「いいえ。水路を改善した方法を共有する代わりに、兵を退かせます。境界は古い台帳と測量記録で確認し、標石を双方立ち会いのもとで置き直します」
カルロス様は黙って私を見た。
ライホールドの婚約者だった頃、私は社交のためだけでなく、領地法や契約書の読み方も教え込まれた。
将来侯爵家の一員として恥をかかないためだったらしい。婚約はなくなったが、読んだ法令まで頭から出ていったわけではない。
役に立つ日が来たことだけは、元婚約者へ少し感謝してもいいかもしれない。本人へ伝える予定はないけれど。
「私が同行する」
カルロス様が言った。
今度はエドワードがすぐに止めた。
「閣下が直接出向けば、先方も領主を出さざるを得ません。兵が向き合っている状況では、かえって事が大きくなります」
「ならば、なおさらレティツィアを行かせられない」
「奥様には閣下の名代として交渉していただきます。私と騎士二名が護衛につきます」
カルロス様は押し黙った。
私が危険だから反対しているのか、交渉役として信用できないからなのか。前者だと考えるのは少し都合がよすぎる気がしたので、判断は保留にする。
「相手が話を聞かなければ、すぐ戻ります。兵の前へ一人で出たりもしません」
「当然だ」
「崖にも近づきません」
「それも当然だ」
以前の上流調査を思い出したらしい。声が一段低くなった。
結局、カルロス様は私に正式な委任状と領主印を預けた。
条件は、エドワードの指示に従うこと、日暮れ前に交渉を打ち切ること、危険を感じたら成果に関係なく戻ることだった。
出発の準備を終え、玄関前で馬車へ乗ろうとした時、後ろから呼び止められた。
「レティツィア」
名前を呼ばれたのは初めてだった。
振り返ると、カルロス様が小さな硝子瓶を手に立っていた。透明な液体が半分ほど入り、蝋で厳重に封じられている。
「これを持っていけ」
「何ですか」
「解毒薬だ。すべての毒に効くわけではないが、万が一の場合に使え」
私は瓶を受け取った。
彼の指先が一瞬だけ私の手袋へ触れ、すぐ離れる。小瓶は手の中で冷たかったのに、触れた場所だけが妙に熱く感じられた。
「ありがとうございます」
カルロス様は何か言いかけ、口を閉じた。
玄関の石段の下では、エドワードたちが待っている。急がなければならない。それでも彼は私から目を逸らさなかった。
「……返事は、帰ってきてからでいい」
何への返事なのか尋ねる前に、カルロス様は背を向けた。
私たちは西の境界へ向かった。
牧草地の手前には両領の兵が向かい合い、空気が張りつめていた。幸い、エドワードが到着を知らせると、先方の代官は交渉用の天幕へ私たちを通した。
代官は最初から不機嫌だった。
「伯爵本人ではなく、嫁いできたばかりの奥方ですか」
「カルロス・ダンヴァル伯爵の名代として参りました。こちらが委任状です」
領主印を確認すると、代官の目つきがわずかに変わった。それでも椅子を勧める様子はない。私は立ったまま古い測量図を机へ広げた。
「境界については、この記録を基に共同で測り直すことを提案します」
「標石はすでに動いている。古い図だけで何がわかる」
「標石以外に、丘の岩盤と二本の古木が基準として記されています。動かせないものを起点にすれば確認できます」
代官は図面を覗き込み、黙った。
「ただし、そちらが急いでいるのは土地そのものではありませんね」
私が牧草地を横切る細い流れを示すと、彼の顔が強張った。
「今年、隣領では家畜用の水が不足している。違いますか」
「どこでそれを」
「境界付近の報告書に、そちらの農民が水を汲みに来た記録がありました。水が足りなければ、近隣から水を確保したいと考えるのは不自然ではありません」
責める口調にはしなかった。追い詰めれば、相手は正しい話でも拒む。
「ダンヴァル領では水路の詰まりを調べ、流れを戻しました。測量と修繕の方法を共有します。必要なら職人も一定期間派遣します。その代わり、今日中に兵を退き、境界標の確認が終わるまで牧草地へ入らないでください」
「技術を渡すと?」
「水が不足したままなら、境界争いは何度でも起きます。原因を残したまま兵だけ退かせても意味がありません」
代官は長く黙った。
やがて別室から水路を管理する役人が呼ばれ、こちらの修繕記録を見せることになった。
泥の溜まり方、水量が落ちた位置の調べ方、作業後の見回り。
実際に手を動かしたのはジルドや職人たちなので、私は記録にある範囲を超えて知った顔をしないよう気をつけた。
交渉は昼を過ぎても続いた。
最終的に、先方は兵を退くこと、十日以内に共同測量を行うこと、測量が終わるまで従来の境界を守ることに同意した。
こちらは水路改善の記録を渡し、職人二名を期間限定で派遣する。
天幕を出ると、向かい合っていた兵たちが少しずつ距離を取っていた。
剣を抜かずに済んだ。
それだけで、肩に入っていた力が抜けた。
「見事でした」
エドワードが言った。
「相手が本当に水で困っていたからです。違っていたら、早々に帰っていました」
「それでも、閣下にはできない交渉でした」
「カルロス様が出れば、相手も引けなくなったでしょうから」
帰りの馬車が動き出す。
窓の外では、夕日が牧草地を赤く染めていた。私は鞄の中の小瓶へ手を触れる。
使わずに済んだ解毒薬は、出発した時と同じ重さのはずなのに、今は少し違って感じられた。
返事は、帰ってきてからでいい。
あれは何への返事のことだったのだろう。
尋ねるべきことが一つ増えたまま、馬車は領主館へ続く道を走っていた。




