第18話 玄関で待っていた男
領主館へ着いた頃には、夕暮れが山の端へ沈みかけていた。
馬車の窓から見える畑は薄い金色に染まり、水路だけが夕日を細く反している。
往路では張りつめて見えた道も、帰りには少し違って見えた。剣を交えずに済んだという事実が、景色から余計な棘を取り除いたのかもしれない。
ただし、体は正直だった。
交渉中は気づかなかった肩の凝りが、馬車の揺れに合わせて存在を主張している。薬師として見れば、長時間同じ姿勢を取り続けた患者には休息を勧めるところだ。
自分に処方する場合だけ、なぜか実行率が下がる。これは前世から治らない悪癖だった。
向かいに座るエドワードは、窓の外を見たまま言った。
「まもなく到着します」
「交渉の報告は、私からでいいでしょうか」
「はい。ただし、閣下が先に奥様の無事を確認なさると思います」
私は鞄の上へ置いていた手を止めた。
「交渉の結果ではなく?」
「両方でしょう」
エドワードの口調は平坦だったが、わずかに含みがある。診療所で言いかけた言葉の続きを、まだ諦めていないらしい。
騎士団長は口が堅い人だと思っていたが、主君のことになると時々、口の閉まりが甘くなるようだ。
「カルロス様は領主ですから、使者の安否を確かめるのも仕事です」
「そういうことにしておきます」
訂正する気が起きない返事だった。
馬車が正門を抜ける。石畳へ車輪が乗り、速度が落ちた。領主館の玄関前には使用人が数人並んでいる。その中央に、見慣れた濃紺の外套があった。
カルロス様だった。
階段の上ではなく、馬車が止まる場所まで下りて立っている。背後にはジルドが控え、その足元ではクオが白い尾を揺らしていた。
扉が開き、エドワードが先に降りる。私が差し出された手を借りて地面へ足をつけると、カルロス様がこちらへ一歩進んだ。
灰色の目が、私の顔から肩、腕、足元へと動く。
怪我がないか確かめているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「お待たせしました」
私が言うと、カルロス様は視線を私の顔へ戻した。
「……待っていたわけではない。たまたまだ」
まだ何も尋ねていない。
玄関前にいた理由を先に説明されるとは思わなかった。しかも、たまたま外套を着て、日が沈む直前に、帰着予定の馬車が止まる場所へ立っていたらしい。
「そうですか」
私は素直に頷いた。
否定するほど言葉が増えそうだったからである。
カルロス様の眉間に薄く皺が寄った。なぜか不満そうだ。疑えば否定され、信じれば不満を示される。扱いの難しい患者である。
「交渉の結果は」
ようやく本来の用件が出た。
「解決しました。先方は今日中に兵を退きます。十日以内に共同測量を行い、それまでは従来の境界を守ることで合意しました。こちらからは水路修繕の記録を渡し、職人を二名、期間を決めて派遣します」
「負傷者は増えたか」
「いいえ。私たちが着いてからの衝突はありません。先に負傷した方々も、命に関わる状態ではないそうです」
カルロス様の肩が、ごくわずかに下がった。
深く息を吐いたわけではない。表情もほとんど変わっていない。それでも、張りつめていたものがほどけたのがわかった。
「そうか」
短い声だった。
それだけで、カルロス様は私たちが戻るまで何度も玄関の外を見たのではないかと思えた。
もちろん証拠はない。記録へ書くなら、帰着時に玄関前で待機、報告後に緊張の緩和を確認、程度になる。
その方が本人の尊厳にも優しい。
ジルドが報告書を受け取るためエドワードへ近づいた。カルロス様も踵を返し、玄関へ戻ろうとする。
私は鞄の中で硬いものが触れたのを思い出した。
「あの、カルロス様」
呼び止めると、背中が止まった。
「解毒薬は使いませんでした」
私は鞄から小さな硝子瓶を取り出した。夕日の残りを受け、透明な液体が淡く光る。蝋の封は、渡された時のままだ。
カルロス様は振り返り、瓶を見た。
「……そうか」
先ほどと同じ言葉なのに、今度は明らかに安堵が混じっていた。
「お返しします」
私は瓶を差し出した。
カルロス様は受け取らなかった。
視線が硝子瓶から私の手へ移り、そのまま動かない。私がもう少し腕を伸ばすと、彼は低い声で言った。
「いい。持っておけ」
「ですが、これはカルロス様がお持ちになっていた方が」
「予備はある」
「貴重なものではないんですか」
「確かに貴重なものだ」
それなら、なおさら返した方がいい。
そう言おうとしたが、彼の目を見て言葉が止まった。
必要な品を貸した人の顔ではなかった。返却されたくないものを差し出している人の顔だった。もっとも、カルロス様は表情が乏しいので、顔だけから判断するのは危険である。
けれど、握られた手と、少し硬くなった声は見間違えにくい。
「私が持っている方が、いいんですか」
尋ねると、カルロス様は一拍黙った。
「万が一がある」
「領内で毒を飲む予定はありません」
「予定して飲む者はいない」
正論だった。
薬局で「副作用になる予定はない」と言われても、患者の鞄から薬を抜くわけにはいかない。備えるとは、予定のないことへ対処するためにある。
「では、お預かりします」
瓶を鞄へ戻す。
その時になって、出発前の言葉を思い出した。
返事は、帰ってきてからでいい。
いま返事をしたことになるのだろうか。けれど、何を尋ねられたのか私はまだ知らない。
解毒薬を持っていけという命令への返事なら、出発前にすでに受け取っている。
「あの言葉は――」
問いかけようとした時、背後でエドワードが息を吸った。
何かを言おうとしたのだと思う。
「黙れ」
カルロス様が、こちらを見たまま先に言った。
エドワードは口を閉じた。
「私はまだ何も」
「言うな」
「承知しました」
あまり承知していない顔だった。
私は二人を見比べた。どうやら、私だけが知らない会話が成立している。
説明を求めるべきかもしれないが、カルロス様の耳がわずかに赤いことに気づいてしまった。
夕日のせいという可能性はある。
日がほとんど沈んでいる点を除けば。
「奥様、まず中へお入りください」
ジルドが穏やかに助け舟を出した。
「長旅でお疲れでしょう。夕食の準備もできております」
「はい」
玄関へ向かうと、クオが私の足元へ寄ってきた。白い鼻先が外套の裾を嗅ぎ、それから満足したように尾を振る。
私はカルロス様だけでなく、クオにも無事を確認されたらしい。
階段を上がる途中、隣を歩くカルロス様が言った。
「次は行かせない」
「次の境界争いが起こらないように、今回の合意を守らせます」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味ですか」
彼は答えなかった。
代わりに、私の足が外套の裾を踏みそうになると、腕を取って一段上へ引いた。すぐに離されたが、支えられた場所へ温かさが残る。
言葉にできない人の意思は、時々、行動の方から先に届く。
食堂では温かいスープが待っていた。
交渉の詳細を報告しながら食事を取り、職人の派遣時期と共同測量の担当者を決めた。
カルロス様は相手の要求をそのまま受け入れたわけではないか何度も確認したが、合意書を読み終えると、ようやく納得したようだった。
「よくやった」
最後に、彼はそう言った。
褒められるとは思っていなかったので、匙を止めてしまった。
「ありがとうございます」
声が少し遅れた。
侯爵家では、できて当然のことに言葉が与えられることは少なかった。
婚約者のために法を学んでも、役に立たなければ意味がないと言われ、役に立てば当然だと扱われた。
けれど、今日の交渉で使った知識も、相手の事情を考えたことも、ここでは一つの結果として受け取られた。
胸の内側へ、小さな灯りが置かれたようだった。
食事を終えて部屋へ戻る途中、ジルドが廊下の向こうから歩いてきた。手には銀の盆があり、その上に二通の封書が載っている。
「奥様。王都から、お手紙が届いております」
差出人を見て、足を止めた。
一通は、ハーヴェル侯爵家。
もう一通には、婚約を破棄したはずのライホールドの名が記されていた。




