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婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


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第8話 疫病の本当の原因と、領民が動く

 水の次は、食事と保存と生活環境だ。


 そう口にした瞬間、カルロス様の灰色の目がこちらを向いた。問いただすでも、遮るでもない。ただ、続きを待っている目だった。


 私はノートを開き、昨日から書き足していた項目を指でなぞる。


「水路の汚染は、病人を増やしている原因の一つだと思います。けれど、町で見た症状の全部は説明できません。顔色の悪さ、傷の治りにくさ、ふらつき、息切れ。水だけではなく、食べているものにも偏りがあるようです」


「食べているものか……」


「はい。保存食が多すぎます。塩漬け肉、硬い黒パン、乾燥豆。腹は満たせますが、同じものが続けば体は弱ります。野菜が小ぶりで、果物も少ない。薬草が育つ土地なのに、食べられる若葉や根をうまく使えていないかもしれません」


 騎士の一人が困った顔をした。


「我々や領民は、食えるものはだいたい食っております」


「だいたい、が危ないんです。食べられるけれど下処理が必要なもの、保存すると成分が変わるもの、煮すぎると効き目が落ちるものがあります。逆に、煮なければ危ないものもあります」


 言いながら、我ながら面倒な話をしていると思った。食事は毎日のことだから、正しさだけを並べても続かない。


 前世の患者さんにも「野菜を食べてください」だけで生活が変わる人は少なかった。台所に立つ人の手間、財布、味の好み、家族の文句。薬より手ごわい敵は、日常である。


 作業のために集められた領民たちは、最初は半信半疑だった。


 当然だ。嫁いできたばかりの魔力なし令嬢が、いきなり「食事を変えましょう」と言い出したのである。私が逆の立場なら、まず眉をひそめる。眉だけで済めば礼儀正しい方だ。


 そこへ、ジルドが前に出た。


「奥様に言われた通りにやってみよう。水路の件も、見つけたのは奥様だ」


 ざわめきが小さくなった。


 ジルドの言葉は強い。大声ではないのに、妙に通る。年齢と実績は、時々、魔力より効く。薬で言えば、即効性はないが信頼性のある処方である。


「まず、井戸水と煮沸した水を回します。水路の下流を使っていた家には、しばらく別の水を優先してください。次に、食事です。乾燥豆は戻す水を捨ててからよく煮ること。酸味のある野草は、煮込みに全部入れず、仕上げに少し加えてください。子どもと老人には、硬い黒パンを水でふやかすより、野菜くずと一緒に粥にした方が飲み込みやすいです」


 途中で、太った女性が腕を組んだ。


「奥様、野菜くずなんて言っても、まともな野菜が少ないんだよ」


「皮や茎も使えます。痛んだ部分は除いてください。使えるものと捨てるものを分けたいので、台所を見せてもらえますか」


 女性は目を丸くした。


「侯爵家の奥様が、うちの台所を?」


「台所を見ないと、料理の話はできません」


 私がそう言うと、近くで誰かが小さく笑った。馬鹿にする笑いではない。たぶん、呆れた笑いだ。私はそれを、受け入れの初期症状として記録することにした。


 その女性がリンダだった。


 薬草市場で店を持つ商人だという。四十代くらいで、声が大きく、目が鋭い。体の厚みも頼もしい。王都の茶会なら浮くだろうが、この町では彼女の一言で人が動く空気があった。


 リンダの台所には、乾燥薬草、根菜、豆、塩漬け肉、酸味の強い葉が並んでいた。私は一つずつ匂いを確認し、傷み方と保存状態を見た。


「これは湿気ています。乾燥させ直した方がいいです」


「そんな細かいことまで見るのかい」


「食べるものは、細かいことの積み重ねです」


「薬みたいな言い方だね」


「私には、だいたい薬に見えます」


 リンダは豪快に笑った。


 その笑い声で、台所の空気が少し軽くなる。彼女は私の説明を聞きながら、近所の女性たちを呼び集めた。


 私は煮沸の時間、豆の戻し方、乾燥した葉の保管場所、粥に混ぜる薬草の量を伝える。


 細かな分量は、彼女たちの手元に合わせて決めた。王都の秤がなくても作れる形でなければ、明日には忘れられる。


 昼過ぎには、町の広場に大鍋が出た。


 ジルドが人をまとめ、騎士たちは水を運び、リンダは市場の者へ声を飛ばした。カルロス様は町の端で作業を見ていたが、必要なところだけ短く命じた。


「薪を出せ。屋敷の備蓄を使っていい」


「乾燥豆と塩は」


「すべて手配する。足りない分は隣領から買う」


「金がかかりますぞ」


「人が死ぬより安い」


 その一言で、周囲が静かになった。


 言葉は少ない。愛想もない。けれど、必要な物資を出すと言い切れる領主は強い。


 王都でよく見た、優しい言葉だけを配る人々より、ずっと実用的だった。


 実用的という評価を夫に向けるのは、少し色気がないかもしれないが、今のところ私にとってはかなり高評価である。


 私は広場の端で、煮上がった粥を小皿に取り、味を確かめた。


 薄い。けれど、飲み込みやすい。酸味のある葉を最後に入れたことで、少し香りが立っている。これなら老人や子どもでも食べやすいはずだ。


「奥様、これで本当に病が減るのかい」


 リンダが声を落として聞いた。


「これだけで全部は無理です。水路の汚染も、家の湿気も、他の原因もあります。でも、食べるものが少し変われば、倒れる人は減らせます。傷の治りや疲れ方も違ってくるはずです」


「魔法じゃないんだね」


「はい。魔法ではありません」


 私は小皿を置いた。


「私は見立てるだけです。実際に動いてくれるのは、あなた方です」


 リンダは黙った。


 少し離れたところで、ジルドも私を見ていた。彼は驚いたように目を細め、それから静かに言った。


「……そういう言い方をする方をお見かけしたのは初めてです」


「普通は何と言うのですか」


「私が救ってやる、と」


「それは、私一人で大鍋を運べるようになってからにします」


 リンダがまた笑った。今度は周囲の女性たちもつられて笑った。笑い声の中で、湯気の上がる椀が次々と手渡されていく。


 老人が慎重に粥をすすり、子どもが舌を出して熱がる。騎士が鍋を運ぶ姿に、誰かが茶化す。


 町が少しだけ動いた。


 それは大きな変化ではない。奇跡でもない。けれど、止まっていたものがほんの少し流れ始める瞬間を、私は確かに見た。


 夕方、片づけが終わる頃、リンダが私の手に乾燥した薬草の束を押しつけた。


「礼だよ。奥様のおかげで助かります」


「まだ助かったと決まったわけではありません」


「決まってなくても、助かった気になれたんだ。それも大事だろ」


 私は返す言葉を探して、少し遅れた。


 前世の薬局でも、薬を渡しただけで安心した顔になる人がいた。


 効果が出るのはこれからなのに、その時点で呼吸が少し楽になったような顔をする。


 安心も治療の一部なのだと、私は何度も思った。プラシーボ効果はこの世界でも健在らしい。


「では、ありがたくいただきます」


 領主館へ戻ると、二階の窓辺に人影が見えた。


 カルロス様だった。


 彼はすぐに窓から離れた。けれど、その前にこちらを見ていたのはわかった。リンダの「奥様」という声も、たぶん届いていた。


 部屋に戻ると、机の上に白狐が座っていた。


 なぜ机の上なのか。いつ登ったのか。安静という言葉だけでなく、遠慮という概念も持っていないらしい。


「そこは私の作業場所です」


 白狐は尾でノートを押さえた。


 退く気はない、という意思表示に見えた。


 私はため息をつき、薬草の束を棚に置いた。その時、開け放した扉の向こうから、小さな声がした。


「なにしてるの」


 振り向くと、廊下にコリンが立っていた。


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