第7話 前世の話と、水路の原因
翌朝、食堂へ行くと、カルロス様はいつも通り湯気の立つ茶を前に座っていた。
昨夜の水場で、私はかなり面倒なことを口にした。前世の記憶がある、と。薬を扱う仕事をしていた、と。この世界でそれを真面目な顔で話せば、不気味がられるか、笑われるか、どちらかだと思っていた。
けれど、カルロス様は笑わなかった。
不気味がっているかどうかは、正直よくわからない。何しろ表情が動かない。顔色で判断できない相手は、薬師としては少し困る。
患者さんなら脈を測るところだが、夫の手首を朝食前に突然つかむのは、さすがに白い結婚の範囲を超えている。
「上流へ行く」
彼は朝の挨拶の代わりにそう言った。
「はい。よろしくお願いします」
「あれを信じたわけではない」
「前世の話ですか」
「そうだが……」
私はパンをちぎりながら頷いた。
「それで構いません。信仰ではなく調査ですので」
カルロス様は黙った。
言い方が少し硬かったかもしれない。けれど、信じてほしいわけではないのは本当だ。前世の知識は、魔法の印ではない。
むしろ、かなり地味な道具である。見て、比べて、間違えたら直す。派手さはないが、私はその地味さを信用している。
朝食後、私は動きやすい服に着替え、鞄に布、薬草軟膏、小瓶、細い縄、簡単な採取道具を入れた。嫁入り道具というより往診鞄である。
白いドレスを着て上流調査に行く花嫁も、世の中を探せば一人くらいはいるかもしれないが、少なくとも私はその一人になりたくない。
玄関にはカルロス様とジルド、それから騎士が二人いた。白狐もいた。
「あなたは留守番です」
白狐は金色の目で私を見た。
「怪我人、いえ怪我狐は安静です」
白狐は尾を一度だけ揺らし、当然のように歩き出した。話し合いは今日も成立しない。
狐相手に説得を試みる私もたいがいだが、聞く気のない患者は前世にもいたので、経験がないわけではない。
水路の上流へ向かう道は、思ったより険しかった。
屋敷の裏手を抜けると、地面は緩やかに上り始める。草は短く、ところどころ石が出ている。
水路は古い石組みに沿って山側へ続いていたが、流れは細く、途中で何度も淀んでいた。
私はしゃがみ込み、石の隙間を覗いた。
「ここも泥が溜まっていますね」
「毎年さらっている」
カルロス様が答えた。
「頻度が足りない、というだけではなさそうです。上から運ばれてくるものが多すぎるのかもしれません」
「上流からか」
「はい。下流が濁っているからといって、原因がそこにあるとは限りません」
歩きながら、私は水の匂いを確かめた。腐敗臭は、昨日の水場より強くなっている。湿った落ち葉だけではない。動物性の何かが混じった匂いだ。
前世の薬局で嗅ぐ匂いではない。どちらかと言えば、夏場のごみ置き場に近い。できれば人生であまり親しみたくない種類である。
「臭います」
「わかるのか」
「残念ながら」
「残念?」
「わからない方が幸せな匂いですが」
カルロス様は返事をしなかったが、隣にいた騎士が小さく咳払いをした。笑ったのかもしれない。咳との鑑別は難しい。
さらに進むと、水路が崖に沿って細く曲がる場所に出た。足場は狭く、右側は草に覆われた斜面になっている。私は石組みの一部に引っかかる枝を見つけ、身を乗り出した。
「ここ、流れが遅くなっていますね」
「近づくな」
声がした次の瞬間、腕をつかまれた。
強い力で後ろへ引かれ、私はたたらを踏んだ。足元の小石が崖側へ転がり、乾いた音を立てて落ちていく。思ったより深い。
私はようやく、自分が危ない角度まで身を乗り出していたことに気づいた。
「危ない」
カルロス様の声は低かった。怒っているようにも聞こえた。
「ありがとうございます」
「……礼を言う前に、自分の足元を見てくれないか」
「見ていたのは水路でした」
「水路ばかりに気を取られないでくれ」
その通りなので、反論できなかった。私は腕をつかまれたまま、少しだけ目を伏せた。手袋越しでも、彼の手が大きいことはわかった。
離されたあとも、つかまれた場所にしばらく感覚が残っていた。
余計な観察をした、と私は心の中で記録を閉じた。
白狐が少し離れた場所でこちらを見ていた。尾が不満げに揺れている。
もしかすると、危ないと狐にも思われたのかもしれない。今日の私は、狐にまで監督されている。
迂回してさらに上ると、匂いははっきり強くなった。
水路の源に近い小さな湧き口の手前で、石と枝が絡まり、流れを塞いでいた。泥が厚く溜まり、その奥に黒ずんだものがいくつも見える。
私は近づきすぎない位置で目を凝らした。
「……一頭ではありません」
最初は小型の鹿か山羊の死骸かと思った。けれど、腐敗した毛皮の下に見えた骨は一つ分ではない。
古く白くなった骨、半ば泥に埋まった骨、まだ形を残している死骸が、水路の脇と石の隙間に重なるように溜まっていた。
騎士の一人が顔をしかめ、布で口元を覆った。
「ここは、動物の死に場所になっているようです」
言いながら、背中が冷えた。
ただの偶然では片づけにくい。崖に落ちたのか、水を飲みに来て足を取られたのか、何かに誘われるように迷い込んだのか。
今この場で原因は決められない。けれど、水がここを通って下流へ流れていることだけは確かだった。
その時、腐敗臭の奥に、かすかな違和感が混じった。
青臭い。けれど草の匂いだけではない。舌の奥に残るような、鉄に似た匂いがほんの少しある。
私は息を浅くして、周囲を見た。
近くには背の低い草が生えている。水路の縁、石の陰、泥の溜まった場所。どれが匂いの元なのかはわからない。
腐敗臭に紛れてしまえば、普通なら気にも留めない程度だ。
けれど、覚えておく価値はある。
「これが原因の一つです。水の流れを止めているだけでなく、腐敗したものが水に触れています。ただ、なぜ動物がここに集まるのかは、まだ調べる必要があります」
カルロス様は動かなかった。
灰色の目が、死骸と水路を見ている。表情は変わらない。けれど、その沈黙は昨日までの沈黙より重かった。
「それを……今まで見つけられなかった」
言葉は小さかった。
私はすぐに慰めを言わなかった。慰めは使い方が難しい。量を間違えると、相手の傷口に余計なものを塗ることになる。
「ここは下からでは見えません。水路の曲がりと崖で隠れています。それに、流れが完全に止まっていたわけではないので、下流だけを見れば原因を特定しにくい場所です」
「だが、俺の領地だ。俺がすぐに見つけるべきだった」
「……」
私は無言で頷いた。
「だから、今ようやく見つけました。見つけたなら、次は取り除けます」
カルロス様がこちらを見た。
「今すぐ撤去させる。だが、また動物たちが落ちれば同じことの繰り返しだ」
「死骸を片づけたあと、この周囲に柵を置いてください。頑丈なものでなくても、動物が水路へ踏み込む導線を塞げれば違います。棘のある枝を編んだものや、石を積んだ低い囲いでも構いません。それから、しばらくは見回りを増やした方がいいです」
「聞いたか」
カルロス様の声に、騎士たちがすぐ頷いた。
「ジルドを呼べ。作業できる者を集めろ。死骸を撤去し、水路を一度止める。下流にはしばらくこの水を使わせるな。井戸水と煮沸した水を回せ。それから、ここに動物避けを作る。明日以降も見回れ」
指示は短く、早かった。
私は少し驚いた。言葉にするのが苦手な人だと思っていたが、必要な命令に迷いはなかった。
領主として動く時の彼は、食卓で白い結婚を告げた時よりずっと自然に見えた。
「薬師として必要なことは」
「撤去する方には手袋代わりの厚い布を。作業後は手と道具をよく洗うこと。できれば湯を使ってください。死骸に触れた布は、再利用せず処分した方が安全です」
「わかった」
作業の準備が始まるまで、私は湧き口の周囲を観察した。
水そのものは悪くないように見える。問題は途中で汚染されていたことだ。ここを整えれば、少なくとも水由来の不調は減る可能性がある。
ただ、それだけではない。
なぜ、ここで動物が死ぬのか。
そこに残る大きな謎が、未だ解決していなかった。
町で見た顔色の悪さ、治りにくい傷、慢性的な咳、食事の偏り。水だけで全部を説明するには、まだ足りない。
カルロス様がこちらを見た。
「これで、病は減るか」
「減ると思います」
そこで一度、言葉を切った。
期待だけを渡すのは危うい。効き目を大きく言いすぎた薬は、あとで信用を失う。
「ですが、他にも原因があります」
風が斜面を抜け、水路の水面を小さく揺らした。
カルロス様は、目を逸らさなかった。
「言え」
私は鞄からノートを取り出した。
水の次は、食事と保存と生活環境だ。




