第6話 夜中の水場
月明かりの下で、カルロス様は水路を見下ろしていた。
夜の領地は、昼より静かだった。風が草を撫でる音と、どこかで鳴く虫の声だけが聞こえる。肝心の水音は、ほとんどない。
水路なのに水の音がしないというのは、かなりよくない状態だ。
私は少し迷ってから、足元の石を避けて近づいた。
「眠れないんですか」
カルロス様が振り返った。
灰色の目が月を映して、昼よりさらに読みにくい。怖いかと聞かれれば、少し怖い。けれど、怖い顔の人がすべて怖いことをするわけではない。
王都には、菓子のように甘く笑いながら毒のある言葉を出す人がいくらでもいた。顔の怖さは、成分表示としてあまり信用できない。
「お前こそ、なぜここにいる」
「調査です。昼間に見た水路が気になりました」
「夜にか」
「昼は人の目が多いので。あと、夜の方が水の匂いがわかることもあります」
本当は私も眠れなかっただけかもしれない。だが、眠れないから歩いていましたと言うより、調査ですと言う方が薬師として格好がつく。
……実際のところは、格好がついたかどうかは、カルロス様の表情からは読み取れなかった。
彼はまた水路へ視線を戻した。
「以前も調べた」
「ジルドさんから聞きました。水を清める石や、煙のことも」
「……笑ったか」
「いいえ」
即答すると、カルロス様の横顔が少しだけこちらを向いた。
「方法が正しかったとは思いません。けれど、何とかしようとしたことはわかりました。笑う内容ではありません」
水路の淀んだ匂いが、風に薄く混じっていた。
私は袖を押さえながらしゃがみ込み、石組みの隙間を覗く。月明かりだけでは見にくいが、水面に小さな泡が残っている。流れていれば消えるはずのものが、そこに留まっている。
カルロス様はしばらく黙っていた。
沈黙は気まずいものだと、王都では教えられた。会話を途切れさせないこと、場を和ませること、相手の言葉を拾うこと。
貴族令嬢の社交術としては正しいのだろう。だが、薬局では沈黙が必要なこともあった。患者さんが本当に困っていることを話し始めるまで、こちらが先回りしすぎない方がいい時がある。
だから私は、黙って水を見た。
しばらくして、カルロス様が低く言った。
「何年も見ている。だが、原因はわからなかった」
「水路の途中で流れが落ちています。ここだけを見ていても、原因は見つからないかもしれません」
「どういう意味だ」
「上流に詰まりがあるか、流入量そのものが落ちている可能性があります。あとは、どこかで水が腐敗したものに触れているかもしれません。水面の膜と匂いが気になります」
言いながら、私は持ってきた小瓶に水を少し取った。透明度は低い。底に細かな沈殿がある。
これだけで断定はできないが、飲み水として安心できるとは言いにくい。
「明日、上流を見に行ってもいいですか」
「上流は動物たちの生きる森だ。女性が入るのはとても危険だ」
「危険かどうかを確認するためにも、見に行く必要があります」
「一人では行かせない」
「では、どなたか案内をお願いします」
「俺が行く」
反射的に顔を上げた。
カルロス様は、冗談を言うような顔をしていなかった。そもそもこの人が冗談を言うところを、私はまだ見たことがない。
もし言ったとしても、周囲が冗談と気づかず凍りつく可能性がある。高度な罠である。
「領主様ご自身が?」
「俺の領地だ」
それはその通りだった。反論の余地がない正論は、薬と同じで飲み込むしかない。
「わかりました。では明日、明るくなってからお願いします。足元を見たいので」
「お前は、なぜそこまで見る」
問いは唐突だった。
私は小瓶の蓋を閉め、立ち上がった。夜風が外套の裾を揺らす。王都から持ってきた外套は、やはり辺境の夜には薄い。
寒さで頭がはっきりするのは助かるが、指先がかじかむのは困る。細かい作業ができなくなる。
「見ないと、わからないからです」
「魔力がなくても、見に行くのか」
「魔力がないから、余計にです。治療魔法が使えれば、原因がわからなくても症状を抑えられるのかもしれません。でも私にはそれができません。だから、何が起きているのかを確かめるしかないんです」
言ってから、少し強くなったかもしれないと思った。
だが、撤回する気はなかった。魔力がないことは、もう何度も言われてきた。けれど、ないものを数え続けても薬は作れない。
足りないものを確認したら、次はあるものを使うしかない。
「前世では、そうしていました」
カルロス様の目がこちらを向いた。
しまった、と思った時には遅かった。
前世。
この世界では、軽々しく口にする言葉ではない。王都で話した時も、信じる者、笑う者、聞かなかったことにする者に分かれた。
どれも面倒だったので、最近はなるべく言わないようにしていたのに、夜の水路と冷たい風に少し気が緩んでいたらしい。
「前世とは」
逃げ道のない声だった。
私は水の小瓶を鞄にしまい、考えた。ごまかすことはできる。言い間違いです、と言えば済むかもしれない。
けれど、この領地で何かを調べるなら、いずれ私の知識の出所は不自然になる。最初から嘘を重ねるのは、あとで副作用が大きい。
「生まれる前の記憶です」
カルロス様は黙っていた。
私は続けた。
「以前の生で、私は薬を扱う仕事をしていました。病院の処方を確認したり、薬の飲み合わせを見たり、患者さんに説明したりする仕事です。この世界の薬師とは少し違いますが、人の体を見て、記録して、原因を考えることはしていました」
「信じろと?」
「いいえ」
そこで私は、首を横に振った。
「信じなくていいです。結果を見てください」
月明かりの下で、カルロス様の表情はほとんど変わらなかった。けれど、目だけは私から逸れなかった。
不思議な距離だった。
近すぎるわけではない。手を伸ばしても届かないくらいには離れている。それなのに、昼間よりずっと近く感じる。
夜のせいか、水音が少ないせいか、彼が黙って聞いているせいかはわからない。
遠くで、白い影が動いた。
振り向くと、庭の端に白狐が座っていた。包帯を巻いた足をかばいながら、こちらを見ている。
安静という言葉を知らないだけでなく、夜更かしという言葉にも寛容らしい。
「あなたも寝てください」
思わず言うと、白狐は尾を一度だけ揺らした。返事のつもりなのか、聞き流したのかは不明だ。
カルロス様が白狐を見た。
「懐かれたな」
「治療費の取り立てかもしれません」
「治療したのはむしろ、お前だろう」
「では、見守りの押し売りですね」
ほんの一瞬、カルロス様の口元が動いた気がした。
笑った、と言うには証拠が足りない。けれど、今日の記録に小さく書いておく価値はある。カルロス様、口元がわずかに動く。原因不明。
夜風がまた吹いた。
私は小瓶を抱え直し、水路の上流へ目を向ける。暗闇の向こうで、水は細く、鈍く続いていた。
あの先に何があるのかはまだわからない。ただ、ここだけを見ていても答えは出ない。
「明日、上流を見ます」
「ああ」
「水の原因が一つでもわかれば、病人の数を減らせるかもしれません」
「……そうか」
その声は、期待しているようにも、期待することを恐れているようにも聞こえた。
私はそれ以上、何も言わなかった。
言葉は薬に似ている。量を間違えると効きすぎるし、足りなければ届かない。今は、これ以上足さない方がいい。
夜の水場で、私たちはしばらく同じ方向を見ていた。




