第5話 カルロスが試みてきたこと
翌朝、私は昨日の記録を机に広げた。
畑の土や、水路の匂い、咳をする老人、顔色の悪い領民たち。
書き出してみると、到着して二日目の花嫁が見る内容としてはなかなか重い気がした。
普通の嫁入りなら、まず屋敷の部屋割りや茶会の予定を確認するのだろう。
私の場合、最初に確認したのは飲水の水質と痰の有無である。侯爵令嬢としての華やかさは、荷馬車のどこかに置いてきたらしい。
ただ、気になっている言葉があった。
『以前の領主様も、何とかしようとしてくださっていた』
あの老人はそう言った。先代のことなのか、カルロス様のことなのか、あるいは両方なのか。
噂では、死神領主は領民に怪しい儀式をさせていたという。
水場に石を置き、夜に煙を焚き、病人が出るたびに不気味な行いを繰り返した、と。
けれど、昨日のカルロス様は私の報告から逃げなかった。
死神と呼ばれる人の目には、少なくとも領地を見捨てた人間の軽さはなかった。表情が動かないので読み取りにくいが、あれで見捨てているなら、見捨てていない人間の顔とは何なのか。
笑顔で破滅を配る貴族も王都にはいるので、顔だけで善悪を判断してはいけない。
私は朝食後、ジルドに時間をもらった。
「昨日の老人が話していたことを伺いたいのです」
「なるほど。――以前領主様、というお話でございますね」
ジルドは静かに頷いた。彼はこの屋敷で一番、話を聞く姿勢が整っている。元騎士だと聞いたわけではないが、背筋と足運びがそう言っている。
背中が経歴を語る人は、前世の薬局にもいた。腰痛持ちの患者さんなどは特に雄弁だった。
「先代様も水路の改善を試みておられました。ですが、本格的に手を入れようとなさったのは、今の閣下です」
「カルロス様が」
「はい。閣下は、何もしなかったわけではございません」
その言い方には、少しだけ力があった。
ジルドは私を書庫へ案内した。書庫と呼ぶには寒く、倉庫と呼ぶには本が多い部屋だった。
古い棚には、領地の地図、収穫量の記録、水路の修繕書、薬草の覚書が並んでいる。紙は湿気を吸って波打ち、端が擦り切れていた。
「閣下は、病人が増え始めた頃から、王都の本や古い薬草書を集めておられました」
ジルドが取り出した紙には、水場の図が描かれていた。丸い石の配置、煙を焚く時間、風向きの記録。噂に聞いた儀式そのものに見える。
私は眉を寄せた。
「水場に石を置いた、というのは」
「古い書物に、淀んだ水を清める石の話がございました。閣下はそれを試されました」
「煙は」
「虫を避ける薬草を焚けば病が減るのではないか、と」
なるほど。
薬学的にはかなりおかしい。
石を置いた程度で水質が改善する可能性は低いし、煙も薬草の種類や濃度を誤れば呼吸器に悪い可能性がある。
慢性的な咳のある老人がいる土地で煙を焚けば、悪化する人も出ただろうし。
ただ、完全な迷信とも言い切れない。水質を改善しようとしたり、害虫を減らそうとしていた。
方法は間違っていたかもしれないが、向いている方向は、少なくとも領民の命だったのだ。
「それで、噂が広がったのですね」
「夜に煙を焚き、病人の家に石を運ばせましたからな。領民には不気味に見えたのでしょう。結果が出なければ、善意は呪いと呼ばれました」
ジルドの声は淡々としていたが、悔しさが滲んでいた。
私は紙に視線を落とした。
ここにあるのは、すべて失敗の記録だ。けれど、失敗の記録が残っているということは、それだけ何度も試したということでもある。
前世でも、薬が効かなかった記録は大事だった。効かないとわかることは、次に同じ間違いを避けるための道しるべになる。
「カルロス様は、なぜご自身で説明なさらなかったのですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
ジルドは窓の外を見た。庭の端では、白狐が足をかばいながら草の匂いを嗅いでいる。安静という言葉は、やはり狐の辞書に載っていないらしい。
「閣下は、言葉でご自分を守ることが得意ではございません」
「“守る”?」
「はい。領民のためだった、と言えばよかった。だが、結果が出なかった以上、言い訳にしかならぬとお考えになったのでしょう」
言い訳。
その言葉は少し苦かった。
私はライホールドの婚約破棄状を思い出した。あれには理由が二つ書いてあった。魔力がないこと、より相応しい人がいること。
あれも彼にとっては説明だったのだろう。私にとっては、よく磨かれた刃物に近かったが。
同じ説明でも、人を守るものと傷つけるものがある。薬と毒が量や使い方で変わるのと似ている。
「見せていただいても?」
「どうぞ」
私は記録を一枚ずつ確認した。発熱した人数、井戸の位置、冬の死亡者数、収穫量。
数字は不揃いで、書式も統一されていない。それでも、何もしなかった屋敷には残らない量だった。
昼前、ジルドは町の端まで連れていってくれた。
「白狐の話も、昨日お聞きになったかもしれません」
「いいえ。まだ詳しくは」
「この土地が豊かだった頃、白狐が現れると翌年の作物がよく育つと言われておりました。土地神の使いだと」
私は思わず、屋敷の方角を振り返った。
あの白狐が、土地神の使い。
昨日は矢が刺さって倒れていた。神の使いにしては、かなり現実的な怪我である。神秘も矢には勝てないらしい。世の中、物理が強い。
町の小さな広場では、昨日の老人が椅子に座っていた。そのそばに、十歳くらいの少年が立っている。くせのある茶色の髪で、こちらを見る目がまっすぐだ。
「コリン、奥様にご挨拶を」
ジルドが言うと、少年は少し慌てて頭を下げた。
「コリンです。じいちゃんがお世話になりました」
「まだ何もしていません。これから診せていただく予定です」
そう答えると、コリンは不思議そうな顔をした。
「まだ何もしてないのに、予定としては決まってるんだ」
「先に決めておくと、あとで忘れにくいので」
「変なの」
「よく言われます」
実際はそれほど頻繁には言われていない。心の中では言われていたかもしれないが、そこまでは集計していない。
老人は咳を一つして、白狐の話に頷いた。
「わしが子どもの頃に、一度だけ見ました。白い狐が畑の畔を歩いていましてな。その翌年は、薬草も麦もよく育った」
「薬草も、ですか」
「ええ。この辺りは食べる作物には厳しい土地ですが、薬草だけは昔からよく育ちました。もっとも、今はそれもあまり採れなくなりましたが」
薬草だけはよく育つ土地。
私はその言葉を心に留めた。
王都では価値のない辺境、死に体の土地、嫁ぐ女が不幸になる場所。そう呼ばれている土地にも、別の角度から見れば価値があるのかもしれない。薬草が育つ土地なら、治療のための材料を自前で得られる。問題は、その土地が今は痩せていることだ。
屋敷へ戻る頃、白狐は庭の端に座っていた。
包帯を巻いた足を投げ出し、じっとある場所を見ている。前に見た、あの空気の重い一角だった。白狐は私が近づいても逃げず、ただ金色の目を細めた。
「そこが気になるんですね」
返事はない。
けれど、偶然ではないと思った。水が濁っているのも、土が痩せているのも、白狐が見つめる場所の理由も、まだ繋がっていない。繋がっていないものを無理に繋げていいのかはわからない。けれど、気に留めておく価値はある。
夜になっても、私は眠れなかった。
書庫で借りた記録を机に並べ、灯りの下で見比べる。水路の修繕時期、病人の増加、煙を焚いた月、収穫量の変化。
数字はまだ私に答えをくれない。だが、沈黙している数字ほど、何かを隠していることがある気がした。
少し風に当たろうと、私は外套を羽織って廊下へ出た。
窓の外に、月明かりが落ちている。庭の先、水場の方に人影があった。
背が高く、外套の裾が風に揺れている。
カルロス様だった。
彼は一人で、水路のそばに立っていた。




