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婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


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第4話 白い結婚宣言と、領地の惨状


 朝、私の部屋の前には白狐がいた。


 正確に言えば、私の部屋の扉の前を自分の寝床だと決めたらしい白狐が、怪我をした足を器用に横へ逃がして丸くなっていた。


 昨夜、客室の隅に寝床を作ったはずなのに、どうやら本人、いや本狐には別の希望があったようだ。


「そこは通路ですよ」


 白狐は薄く目を開け、私を見た。そして、また目を閉じた。


 話し合いは早くも決裂した。


 包帯を確認すると、血はにじんでいなかった。熱もそれほど高くない。


 私はひとまず安心し、白狐の横をまたいで廊下へ出た。


 侯爵家でこんな歩き方をしたら叱られただろうが、白狐をまたぐ作法までは習っていない。習っていないことは、現場判断でいいだろう。


 朝食の部屋へ案内されると、カルロス・ダンヴァル伯爵はすでに席についていた。


 昨夜と同じく、顔に感情らしいものはほとんどない。


 黒い上着に身を包み、背筋を伸ばして座っている姿は、食卓というより裁判の場にいる人のようだった。前に置かれたスープからは、湯気が立っている。


「座れ」


「失礼します」


 私は向かいの席に座った。パンと卵料理と野菜の煮込み、それから温かい茶。思っていたより普通の朝食だった。


 死神領主の食卓だからといって、黒い皿に赤い液体が注がれているわけではないらしい。偏見はいけないようだ。


 しばらく沈黙が続いた。


 私は黙って食べた。馬車旅のあとで、温かい食事はありがたい。


 野菜は少し硬かったが、味は悪くない。塩が強いのは保存食が多い土地だからかもしれない。あとで食材の種類を確認したい。


 スープを半分ほど飲んだところで、カルロス様が口を開いた。


「先に言っておく」


「はい」


「俺は、お前を妻として愛するつもりはない。形式上の関係でいい」


 匙が止まった。


 なるほど。朝食の味の確認より先に、白い結婚の宣言が来た。貴族の食卓というものは、出される料理以外にも色々と飲み込むものがあるらしい。


 私は一度、頭の中で状況を整理した。


 昨日ここへ着いたばかり。夫となる人は死神領主と呼ばれている。私は婚約破棄されたばかりの魔力なし令嬢。相手は私を愛する気がないと言った。悲しむべき場面なのかもしれない。


 けれど、正直なところ、少しだけ助かった。


 いきなり甘い言葉をつらつらと流れる水のごとく並べられても困る。


 婚約破棄状を受け取って五日で、辺境の伯爵に熱烈に口説かれたら、私の処理能力が追いつかない。薬の飲み合わせなら確認できるが、感情の飲み合わせは専門外だ。


「構いません。私も同じです」


 カルロス様の灰色の目が、ほんのわずかに動いた。


「同じ、か」


「はい。私も、今すぐ夫婦としての愛情を求めているわけではありませんので」


 言ってから、少し言葉が硬すぎたかもしれないと思った。だが、事実である。嘘をついても治療にはならない。人間関係にもたぶん効かない。


 カルロス様はしばらく私を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。


 沈黙が戻る。けれど、先ほどまでの沈黙とは少し違った。相手が私を追い出したいわけでも、侮辱したいわけでもないことはわかった。


 少なくとも、今の言葉に悪意は少ない。表情は怖いが、言葉の中身は思ったより単純だ。


 私は茶を飲み、食卓の端に視線を向けた。


「では、私からもお願いがあります」


「何だ」


「領地を見て回りたいです」


 カルロス様の眉が動いた。たぶん、動いた。石像の表情変化を読み取る訓練をしている気分である。


「なぜ」


「病人が多いと聞きました。水場や食事、住環境を見ないと、何が原因なのか判断できません」


「お前は魔力がないと聞いたが?」


「はい。なので、見て、聞いて、記録します」


 カルロス様は答えなかった。反対されるかと思ったが、彼は扉の脇に控えていたジルドへ視線を向けた。


「案内しろ」


「かしこまりました」


 ジルドは静かに頭を下げた。私は内心で息をついた。許可が出た。


 白い結婚宣言の直後に領地調査の許可が出るとは、なかなか実用的な夫婦関係である。悪くない。少なくとも、泣いて暮らせと言われるよりずっといい。


 朝食後、私は外套を羽織って屋敷の外へ出た。


 ジルドが案内してくれたのは、まず屋敷近くの畑だった。畑と呼ぶには土の色が悪い。表面が固く、ところどころ白っぽく乾いている。芽は出ているが、細く、葉の色も薄い。


「毎年、このような状態ですか」


「近年は特に悪くなっております。雨が少ない年もありますが、それだけでは説明がつきません」


 ジルドの声には、疲れが混じっていた。


 私はしゃがみ、指先で土を少し崩した。硬い。水はけが悪い部分と、乾きすぎている部分が極端に分離している。


 前世で農業を専門にしていたわけではないが、薬草を扱う以上、土の状態を無視するわけにはいかない。


 植物は土から逃げられない。人間関係から逃げられない貴族令嬢に少し似ている。あまり嬉しくない共通点だ。


 次に水路を見た。


 石で組まれた古い水路は、途中で流れが弱くなっていた。水の表面に薄い膜が張り、端には枯れ草や泥が溜まっている。


 匂いもよくない。強烈ではないが、湿ったものが長く動かずにいた時の匂いだ。


 私は眉を寄せた。


「飲み水はここからですか」


「この水路から各所へ引いております。井戸もありますが、数が少なく、深い場所は冬に凍ります」


「煮沸は」


「する家もありますが、薪が足りない家では難しいかと」


 なるほど。水、燃料、保存食、栄養。すでに嫌な単語が頭の中で並び始めている。並ぶだけならいいが、これらはだいたい仲が悪い。仲が悪いもの同士が集まると、病気は喜んで宴会を始めるのだ。


 町へ下りると、通りの人々がこちらを見た。


 好奇心と警戒と諦めが混じった視線だった。若い奥様が来た、という顔ではある。だが、歓迎というより、また誰かが来て、また何も変わらないのだろうという顔にも見えた。


 細い腕の子どもが母親の後ろから私を見ている。頬の色が悪い。店先に座る女性は、立ち上がる時にふらついた。荷を運ぶ男性の唇は荒れ、手の甲には治りかけの傷がいくつもあった。


 私は記憶に刻んだ。


 診察するには早い。けれど、見たものは残す。前世の薬局でも、処方箋に書かれていない情報ほど大事なことがあった。歩き方、息の切れ方、肌の色、話す速さ。薬の名前だけでは、人は見えない。


「奥様」


 呼ばれて振り向くと、年配の男性が杖をついて立っていた。細い体で、肩が少し丸い。咳を一つしたあと、慌てて口元を押さえる。


「若い奥様が来てくださったんですね」


「レティツィアと申します。咳はいつからですか」


 老人は目を瞬かせた。ジルドも少し驚いた顔をした。


 しまった。初対面の挨拶としては、やや薬師が前に出すぎた。けれど、咳をしている人を見ると、どうしても気になる。職業病である。前世から持ち越したものの中で、たぶん一番頑固だ。


 老人は苦笑した。


「もう何年にもなります。冬になるとひどくなりましてな。夏も、よくはなりません」


「痰は出ますか。血が混じることは」


「少し出ますが、血はありません」


「息苦しさは」


「坂を上ると、少し」


 聞きながら、私は頭の中で記録した。慢性的な咳、季節で悪化、痰あり、血なし、息切れあり。水、煙、栄養状態、家屋の湿気。可能性はいくつもある。


「今度、詳しく診せてください」


「診て、くださるんですか」


 老人の顔に、ほんの少しだけ光が差した。


 期待、というには弱い。期待して裏切られることに慣れた人の、慎重な明るさだった。その顔を見た瞬間、胸の奥が静かに決まった。


 この顔を変えたい。


 大きなことはまだ言えないと思う。ヒールなどの回復魔法が使えれば話は違うのかもしれないが、私には魔力もない。領地を救うなどと口にすれば、あまりに大げさだ。けれど、目の前の咳を少し楽にする方法なら、一緒に考えられる気がした。


 水の流れを確認したり、食事の偏りを調べるなどしてみようか。


 小さいことを積み上げるのは、薬師の仕事だ。

 それくらいは慣れている。


 屋敷へ戻る頃には、風が少し冷たくなっていた。私の外套は王都から持ってきたもので、見た目は悪くないが、防寒具としては頼りない。


 貴族令嬢の服は、寒さより社交界の視線を防ぐために作られているのだと思う。辺境の風には、あまり効かなかった。


 玄関の近くに、カルロス様が立っていた。


 偶然かもしれない。だが、屋敷の中へ入るでもなく、こちらを見ていたので、たぶん待っていたのだろう。


 そう判断するにはまだ証拠が足りないので、記録には保留とする。


「見たか」


「はい」


「どうだった」


 短い問いだった。


 私は少し考えた。惨状です、とだけ言うのは簡単だ。けれど、それでは何も始まらない。


「畑の土は痩せています。水路は流れが悪く、飲み水に影響している可能性があります。咳の長い方もいました。原因は一つではないと思います」


 カルロス様は黙って聞いていた。灰色の目は変わらない。けれど、私の言葉から逃げるようには見えなかった。


「治せるのか」


「まだわかりません。ですが、調べてみようと思います」


「……そうか」


 彼はそれだけ言って、屋敷の奥へ向かった。


 私も続こうとした時、背後からあの老人の声が聞こえた。いつの間にか、杖をついて門の近くまで来ていたらしい。


「以前の領主様も、何とかしようとしてくださっていたんですよ」


 私は足を止めた。


 以前の領主様。


 死神と呼ばれる今の伯爵ではなく、その前の人の話だろうか。それとも、カルロス様が領主になったばかりの頃のことを、老人はそう呼んだのだろうか。


 聞き返そうとしたが、老人はまた咳き込み、ジルドがそっと背を支えた。


 私はその言葉を、今日の最後の記録に加えることにした。


 この領地は、ただ放置されてきたわけではないのかもしれない。


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