↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された薬師令嬢ですが、死神伯爵の妻になった結果、毒殺陰謀を暴きながら不器用な夫の溺愛を向けられることになりました  作者: NIKE


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/39

第3話 白狐と、死神領主


 窓の外に倒れていた白い獣は、狐だった。


 少なくとも、耳の形と細い鼻先と尾の長さを見る限り、狐である。けれど私の知っている狐よりずっと毛並みが白く、雪を丸めて獣の形にしたようだった。


 季節外れの雪玉にしては、右後ろ足に矢が刺さっている。


 これは、見なかったことにできるものではない。


 私は窓枠に手をかけた。二階ではない。一階の客室だ。高さはあるが、落ちても骨折まではしないだろう。たぶん。


 薬師が自分で骨折してどうするのかという問題はあるけれど、怪我をした相手を前にして玄関までの礼儀正しい経路を選ぶほど、私は優雅に育っていない。


 スカートの裾を片手でまとめ、もう片方の手で鞄を引き寄せる。清潔な布、止血用の粉、細い鋏、消毒に使える蒸留酒。


 長旅用に最小限だけ持ってきた道具だが、矢傷の応急処置なら足りる。


 足りてほしい。足りないと困る。


 窓から降りようとしたところで、背後の扉が開いた。


「何をしている」


 低い声だった。


 私は窓枠に片足をかけた姿勢のまま振り返った。初対面の相手に見せる姿としてはかなり悪い。


 侯爵家の礼法教師が見たら卒倒するかもしれないが、今ここに礼法教師はいないので私は胸をなでおろした。


 扉のところに立っていたのは、背の高い男性だった。


 黒に近い濃紺の外套を羽織り、裾に泥がついている。長い銀灰色の髪を後ろでゆるく結び、顔立ちは整っているのに、表情がほとんど動かない。


 そのせいで、人というより石像が旅装を着て歩いてきたように見えた。


 この人が、カルロス・ダンヴァル伯爵。


 死神領主と噂される、私の夫になる人。


 なるほど、と私は思った。たしかに笑顔で花束を持って出迎えてくれる雰囲気ではない。


 花束の代わりに鎌を持っていても、周囲はそれほど驚かないかもしれない。むしろ、よく似合う。


「庭に怪我をした白狐がいます。処置をしたいので、少し待っていただけますか」


 私がそう言うと、伯爵は窓の外に目を向けた。


 白狐は、まだ草の上に倒れている。わずかに胸が上下していた。呼吸はある。だが早い。


「魔力なしで、どうやって治す」


 事前に聞いていたのだろう。私は魔力がない。王都ではそれだけで、治療の場に立つ資格がないように扱われることも多かった。


 けれど、傷口は魔力だけで塞がるものではない。少なくとも、私の前世ではそうだった。


「薬草と手と知識で」


 伯爵は私を見た。


 灰色の目だった。冷たいというより、深い井戸の底みたいな色だ。覗き込むには少し勇気がいる。


「好きにしろ」


 それだけ言って、伯爵は扉の脇へ退いた。


 止められなかったので、私は遠慮なく窓から降りた。


 着地の瞬間に膝へ衝撃が来たが、骨は無事らしい。よかった。


 花嫁到着初日に骨折という記録は、できれば残したくない。今後の人生で笑い話にするには痛みの比率が高すぎる。


 白狐に近づくと、金色の目がこちらを見た。


 逃げない。逃げられないのかもしれない。右後ろ足に刺さった矢は細く、狩猟用というより小型の獣を狙うためのものに見えた。


 傷口の周囲に血が固まり、白い毛が赤黒く染まっている。


「大丈夫。痛いけれど、少しだけ我慢して」


 白狐の耳がぴくりと動いた。


 言葉が通じたわけではないだろう。けれど、声の調子は伝わる。前世でも、薬の説明をするとき、内容と同じくらい声の速さに気をつけた。


 怖がっている相手に早口で正論を浴びせても、効き目は薄い。


 私はまず呼吸を見た。浅いが、まだ力はある。瞳孔も反応している。


 出血量は見た目ほど多くない。矢の位置からして、骨を大きく砕いてはいないはずだ。問題は抜く角度と、その後の止血。


「噛まないでくださいね。噛まれたら私も処置が必要になります。今日の患者が二名に増えます」


 白狐は、かすかに鼻を鳴らした。


 笑われた気がした。狐に笑われる花嫁というのは、なかなか新しい肩書きである。


 私は布を噛ませる代わりに、丸めた布を口元へ置いた。暴れたときに自分の舌を傷つけないようにするためだ。


 次に、矢の向きを確認し、周囲の毛を少し切る。血が固まった部分を蒸留酒で湿らせた布で拭うと、白狐の体がびくりと震えた。


「ごめんなさい。しみますよ」


 謝っても痛みが減るわけではないが、言わずにはいられない。


 矢を抜くとき、白狐は一度だけ小さく鳴いた。


 細く、胸の奥を引っかくような声だった。私は息を止め、角度を変えずに抜き切る。


 すぐに止血用の粉を振り、清潔な布で押さえた。薬草を練った軟膏を傷口の周囲に塗り、包帯代わりの布で固定する。


 よし。


 まだ油断はできないが、出血は止まった。熱が出るか、傷が膿むかは今後を見る必要がある。水と安全な寝床もいる。狐に安静を指示して守ってくれるかは、かなり疑わしい。


「あなた、安静という言葉を知っていますか」


 白狐は金色の目で私を見た。


 知らないようだった。


「でしょうね」


 私は小さく息を吐いた。


 そのとき、背後に気配を感じて振り返った。伯爵が、少し離れた場所に立っていた。


 近づきすぎず、かといって目を離してもいない距離だ。外套の裾が風で揺れている。


「終わったのか」


「応急処置は。あとは熱と感染を見ます」


「魔力は使っていないのか」


「はい。私には使えませんので」


 伯爵は黙った。


 責められるかと思ったが、そうではなかった。ただ、じっと白狐の足を見ている。彼の表情は相変わらず読みにくい。けれど、少なくとも傷ついた獣を嫌がっているようには見えなかった。


「中へ運びます。暖かい場所が必要です」


「好きにしろ」


 二度目の「好きにしろ」だった。


 許可なのか、放任なのか、興味がないのか、今のところまったく判断がつかない。ただ、止めないなら十分だ。私は白狐を布で包み、慎重に抱き上げた。


 見た目より軽い。骨と毛皮だけのようだった。


 屋敷の中へ戻ると、廊下にいた使用人たちがぎょっとした顔をした。


 花嫁が到着早々、血のついた白狐を抱いて歩いているのだから当然である。私だって他人が同じことをしていたら、まず事情を聞く。


 ジルドがすぐに近づいてきた。


「奥様、それは」


「庭に倒れていました。矢傷です。清潔な水と、使っていない籠か箱、それから古い布をいただけますか」


 ジルドは一瞬だけ白狐を見て、それから深く頷いた。


「すぐに」


 私は客室の隅に白狐の寝床を作った。水を少しずつ与え、傷口をもう一度確認する。


 白狐は疲れ切っているようで、抵抗はしなかった。ただ、私が離れようとすると、金色の目だけが追ってくる。


「逃げませんよ。まだ荷解きも終わっていませんし」


 そう言うと、白狐はまぶたを下ろした。


 そのまま眠ったかと思ったのに、しばらくして私が部屋を出ると、白狐はよろよろと起き上がった。包帯を巻いた足をかばいながら、こちらへついてくる。


「安静という言葉は、やはりご存じないようですね」


 私は慌てて屈んだが、白狐は抱き上げられるのを嫌がるように一歩下がった。足は痛いはずなのに、妙に意志が強い。


 仕方なく、私はゆっくり歩いた。白狐も少し遅れてついてくる。廊下を抜け、庭へ出る扉の近くまで来たところで、白狐は急に足を止めた。


 視線の先には、屋敷の裏手へ続く荒れた庭がある。


 そこだけ、空気が少し重く感じた。草は生えているが色が薄く、土は乾いている。理由はわからない。けれど白狐は、そこから目を離さなかった。


「何かあるんですか」


 もちろん返事はない。


 白狐はただ、じっと見ていた。怪我をしている獣とは思えないほど静かで、金色の目だけが奇妙に澄んでいる。


 私はその場所を覚えておくことにした。


 水場や、病人、煙、死神領主、そして白狐が見つめる庭の一角。


 到着初日にしては、記録することが多すぎる。できれば歓迎の菓子と部屋の説明くらいで済ませてほしかったが、どうやらこの領地は親切に謎を並べてくれるらしい。


 夜、白狐は私の部屋の隅で眠った。


 私は何度か起きて、熱が上がっていないか確認した。傷口は落ち着いている。呼吸も少し深くなった。よかった、と思ったら急に眠気が来た。


 翌朝、扉を開けると、白狐はいなかった。


 一瞬ひやりとしたが、すぐに見つかった。


 白狐は、私の部屋の前で丸くなって眠っていた。まるで、そこが最初から自分の場所だったかのように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。