第3話 白狐と、死神領主
窓の外に倒れていた白い獣は、狐だった。
少なくとも、耳の形と細い鼻先と尾の長さを見る限り、狐である。けれど私の知っている狐よりずっと毛並みが白く、雪を丸めて獣の形にしたようだった。
季節外れの雪玉にしては、右後ろ足に矢が刺さっている。
これは、見なかったことにできるものではない。
私は窓枠に手をかけた。二階ではない。一階の客室だ。高さはあるが、落ちても骨折まではしないだろう。たぶん。
薬師が自分で骨折してどうするのかという問題はあるけれど、怪我をした相手を前にして玄関までの礼儀正しい経路を選ぶほど、私は優雅に育っていない。
スカートの裾を片手でまとめ、もう片方の手で鞄を引き寄せる。清潔な布、止血用の粉、細い鋏、消毒に使える蒸留酒。
長旅用に最小限だけ持ってきた道具だが、矢傷の応急処置なら足りる。
足りてほしい。足りないと困る。
窓から降りようとしたところで、背後の扉が開いた。
「何をしている」
低い声だった。
私は窓枠に片足をかけた姿勢のまま振り返った。初対面の相手に見せる姿としてはかなり悪い。
侯爵家の礼法教師が見たら卒倒するかもしれないが、今ここに礼法教師はいないので私は胸をなでおろした。
扉のところに立っていたのは、背の高い男性だった。
黒に近い濃紺の外套を羽織り、裾に泥がついている。長い銀灰色の髪を後ろでゆるく結び、顔立ちは整っているのに、表情がほとんど動かない。
そのせいで、人というより石像が旅装を着て歩いてきたように見えた。
この人が、カルロス・ダンヴァル伯爵。
死神領主と噂される、私の夫になる人。
なるほど、と私は思った。たしかに笑顔で花束を持って出迎えてくれる雰囲気ではない。
花束の代わりに鎌を持っていても、周囲はそれほど驚かないかもしれない。むしろ、よく似合う。
「庭に怪我をした白狐がいます。処置をしたいので、少し待っていただけますか」
私がそう言うと、伯爵は窓の外に目を向けた。
白狐は、まだ草の上に倒れている。わずかに胸が上下していた。呼吸はある。だが早い。
「魔力なしで、どうやって治す」
事前に聞いていたのだろう。私は魔力がない。王都ではそれだけで、治療の場に立つ資格がないように扱われることも多かった。
けれど、傷口は魔力だけで塞がるものではない。少なくとも、私の前世ではそうだった。
「薬草と手と知識で」
伯爵は私を見た。
灰色の目だった。冷たいというより、深い井戸の底みたいな色だ。覗き込むには少し勇気がいる。
「好きにしろ」
それだけ言って、伯爵は扉の脇へ退いた。
止められなかったので、私は遠慮なく窓から降りた。
着地の瞬間に膝へ衝撃が来たが、骨は無事らしい。よかった。
花嫁到着初日に骨折という記録は、できれば残したくない。今後の人生で笑い話にするには痛みの比率が高すぎる。
白狐に近づくと、金色の目がこちらを見た。
逃げない。逃げられないのかもしれない。右後ろ足に刺さった矢は細く、狩猟用というより小型の獣を狙うためのものに見えた。
傷口の周囲に血が固まり、白い毛が赤黒く染まっている。
「大丈夫。痛いけれど、少しだけ我慢して」
白狐の耳がぴくりと動いた。
言葉が通じたわけではないだろう。けれど、声の調子は伝わる。前世でも、薬の説明をするとき、内容と同じくらい声の速さに気をつけた。
怖がっている相手に早口で正論を浴びせても、効き目は薄い。
私はまず呼吸を見た。浅いが、まだ力はある。瞳孔も反応している。
出血量は見た目ほど多くない。矢の位置からして、骨を大きく砕いてはいないはずだ。問題は抜く角度と、その後の止血。
「噛まないでくださいね。噛まれたら私も処置が必要になります。今日の患者が二名に増えます」
白狐は、かすかに鼻を鳴らした。
笑われた気がした。狐に笑われる花嫁というのは、なかなか新しい肩書きである。
私は布を噛ませる代わりに、丸めた布を口元へ置いた。暴れたときに自分の舌を傷つけないようにするためだ。
次に、矢の向きを確認し、周囲の毛を少し切る。血が固まった部分を蒸留酒で湿らせた布で拭うと、白狐の体がびくりと震えた。
「ごめんなさい。しみますよ」
謝っても痛みが減るわけではないが、言わずにはいられない。
矢を抜くとき、白狐は一度だけ小さく鳴いた。
細く、胸の奥を引っかくような声だった。私は息を止め、角度を変えずに抜き切る。
すぐに止血用の粉を振り、清潔な布で押さえた。薬草を練った軟膏を傷口の周囲に塗り、包帯代わりの布で固定する。
よし。
まだ油断はできないが、出血は止まった。熱が出るか、傷が膿むかは今後を見る必要がある。水と安全な寝床もいる。狐に安静を指示して守ってくれるかは、かなり疑わしい。
「あなた、安静という言葉を知っていますか」
白狐は金色の目で私を見た。
知らないようだった。
「でしょうね」
私は小さく息を吐いた。
そのとき、背後に気配を感じて振り返った。伯爵が、少し離れた場所に立っていた。
近づきすぎず、かといって目を離してもいない距離だ。外套の裾が風で揺れている。
「終わったのか」
「応急処置は。あとは熱と感染を見ます」
「魔力は使っていないのか」
「はい。私には使えませんので」
伯爵は黙った。
責められるかと思ったが、そうではなかった。ただ、じっと白狐の足を見ている。彼の表情は相変わらず読みにくい。けれど、少なくとも傷ついた獣を嫌がっているようには見えなかった。
「中へ運びます。暖かい場所が必要です」
「好きにしろ」
二度目の「好きにしろ」だった。
許可なのか、放任なのか、興味がないのか、今のところまったく判断がつかない。ただ、止めないなら十分だ。私は白狐を布で包み、慎重に抱き上げた。
見た目より軽い。骨と毛皮だけのようだった。
屋敷の中へ戻ると、廊下にいた使用人たちがぎょっとした顔をした。
花嫁が到着早々、血のついた白狐を抱いて歩いているのだから当然である。私だって他人が同じことをしていたら、まず事情を聞く。
ジルドがすぐに近づいてきた。
「奥様、それは」
「庭に倒れていました。矢傷です。清潔な水と、使っていない籠か箱、それから古い布をいただけますか」
ジルドは一瞬だけ白狐を見て、それから深く頷いた。
「すぐに」
私は客室の隅に白狐の寝床を作った。水を少しずつ与え、傷口をもう一度確認する。
白狐は疲れ切っているようで、抵抗はしなかった。ただ、私が離れようとすると、金色の目だけが追ってくる。
「逃げませんよ。まだ荷解きも終わっていませんし」
そう言うと、白狐はまぶたを下ろした。
そのまま眠ったかと思ったのに、しばらくして私が部屋を出ると、白狐はよろよろと起き上がった。包帯を巻いた足をかばいながら、こちらへついてくる。
「安静という言葉は、やはりご存じないようですね」
私は慌てて屈んだが、白狐は抱き上げられるのを嫌がるように一歩下がった。足は痛いはずなのに、妙に意志が強い。
仕方なく、私はゆっくり歩いた。白狐も少し遅れてついてくる。廊下を抜け、庭へ出る扉の近くまで来たところで、白狐は急に足を止めた。
視線の先には、屋敷の裏手へ続く荒れた庭がある。
そこだけ、空気が少し重く感じた。草は生えているが色が薄く、土は乾いている。理由はわからない。けれど白狐は、そこから目を離さなかった。
「何かあるんですか」
もちろん返事はない。
白狐はただ、じっと見ていた。怪我をしている獣とは思えないほど静かで、金色の目だけが奇妙に澄んでいる。
私はその場所を覚えておくことにした。
水場や、病人、煙、死神領主、そして白狐が見つめる庭の一角。
到着初日にしては、記録することが多すぎる。できれば歓迎の菓子と部屋の説明くらいで済ませてほしかったが、どうやらこの領地は親切に謎を並べてくれるらしい。
夜、白狐は私の部屋の隅で眠った。
私は何度か起きて、熱が上がっていないか確認した。傷口は落ち着いている。呼吸も少し深くなった。よかった、と思ったら急に眠気が来た。
翌朝、扉を開けると、白狐はいなかった。
一瞬ひやりとしたが、すぐに見つかった。
白狐は、私の部屋の前で丸くなって眠っていた。まるで、そこが最初から自分の場所だったかのように。




