第2話 五日間の馬車と、死神の噂
馬車の旅は、五日かかった。
侯爵家を出るとき、継母は最後まで「大人しく」と言っていた。
馬車が動き出したあとも、その言葉だけが耳の奥に残っていたので、私は鞄からノートを取り出し、最初の頁にこう書いた。
なお、“大人しく”の定義は不明。
よし。これで少し落ち着いた。
曖昧な言葉は記録に向かない。向かないものは、一度棚に置くに限る。
馬車の中には、薬草の種を包んだ小袋と、小さな調合器具と、前世の知識を書き直したノートがある。あとは着替えが数枚。
侯爵令嬢の嫁入り道具としては、だいぶ地味だ。
宝石箱より乳鉢を大切に抱えている花嫁が社交界でどう評価されるかは知らないが、少なくとも乳鉢は裏切らない。
指輪は人を選ぶが、乳鉢は薬草さえ入れれば働いてくれる。たいへん誠実である。
一日目は、王都を出るだけで終わった。
石畳の道が土の道に変わり、窓の外の屋敷が農家になり、やがて畑と林ばかりになった。
車輪の揺れは想像以上で、私は早々に貴族令嬢らしい優雅な姿勢を諦めた。
座席の角に腰をぶつけた瞬間、私は前世の薬局で使っていた愛用の低反発クッションを少しだけ恋しく思った。
二日目の昼、街道沿いの宿場で休憩を取った。
馬を替える間、私は薬草茶を頼んだ。出てきた茶は薄く、香りも弱かったが、熱かった。それだけで十分ありがたい。
冷めた紅茶を飲みながら婚約破棄状を読んだ朝に比べれば、世の中はもう少し優しい。
隣の卓では、商人らしい男たちが声を潜めて話していた。潜めているつもりなのだろう。
けれど、薬局の待合室で小声の愚痴を聞き分けていた私の耳には、ほぼ通常音量だった。
「ダンヴァル領へ行く荷か」
「薬草と保存食だ。あそこはまた病人が増えたらしい」
「死神領主のところだろう。よく行くな」
死神領主。
私は茶碗を持つ手を止めた。
「領民に妙な儀式をさせるって話だ。夜に水場で石を並べるとか、煙を焚くとか」
「それで誰か助かったのか」
「助かった話は聞かないな。むしろまた一人倒れたとか」
笑い声が小さく混じった。
私はノートを開き、「水場、石、煙、儀式と噂されている行動、効果不明」と端に書きつけた。
噂は、そのまま信じるものではない。けれど、完全に捨てるものでもない。
症状を聞くときも同じだ。患者さんが「昨日から急に」と言っても、詳しく聞けば一週間前から胃が重かったりする。そういう時は、一度診察医に問い合わせだ。
人間の記憶は、わりと都合よく編集される。社交界の噂など、編集者が多すぎて原型が残っていない可能性が高い。
それでも、何かはあるかもしれない。病人が増えていること、水場の話が出ること、煙を焚いていること、死神と呼ばれるほど人が死んでいること。
そのうち一つくらいは、事実に触れていたりするのかも。
三日目になると、道はさらに悪くなった。
窓の外の景色は、王都近くの豊かな畑から、背の低い草と石の多い土地へ変わっていく。
村の井戸端に立つ人々の顔色は、遠目にも明るくない。馬車が通ると、子どもがこちらを見た。痩せた頬に大きな目が目立つ。
私は無意識に指でノートの角を撫でていた。
食事はどうしているのだろう。水は清潔なのだろうか。冬の保存食は足りているのだろうか。考え始めると、馬車酔いよりも別の意味で気分が重くなる。
夕方、同じ方向へ向かう荷馬車としばらく並んだ。御者同士が知り合いだったらしく、速度を落として話し始める。
「その馬車、まさかダンヴァルの花嫁か」
「らしいな」
「気の毒に。前の奥方も半年もたなかったっていうじゃないか」
前の奥方。
私は視線を窓の外へ向けたまま、聞いていない顔をした。聞いていない顔は、貴族令嬢教育でかなり鍛えられている。
茶会で悪口を聞いたときに、砂糖菓子を眺めながら心を無にする技術である。役に立つ場面が偏りすぎている気もするが、使えるものは使う。
「嫁いだ女はみんな不幸になるってよ」
「だから死神領主か」
「近づく者から死ぬんだとさ」
その時、馬車が大きく跳ねた。
私は座席の端を掴み、膝の上の鞄を押さえた。乳鉢だけは守らなければならない。
花嫁本人より乳鉢を心配している時点で、私は令嬢として何かを間違えているのかもしれないが、乳鉢が割れたら薬が作れない。
私が多少揺れても、たぶんまだ使える。
四日目の夜、宿の寝台は硬かった。
眠れないので、私はノートを読み返した。前世でまとめた栄養、感染、保存、煎じ薬、外傷処置。
こちらの世界の薬草名と照合した頁には、何度も線が引いてある。
まったく同じものは少ない。けれど似た働きをする草はある。人の体のつくりも、驚くほど前世に近い。
だからこそ、原因は探せる。
魔力で治すことはできない。奇跡も起こせない。けれど、顔色を見たり、話を聞き、食べているものと飲んでいる水を確かめて、記録を並べるくらいのことはできる。
それは、侯爵家ではあまり価値のない力だった。茶会で評価されるのは魔力の色や刺繍の細かさで、薬歴の読み方ではない。
ちなみに刺繍は、私の指に何度も針を刺しただけで大きな成果を残さなかった。あれは私と相性が悪い。
五日目の午後、空が広くなった。
山が遠くに見え、風の匂いが変わった。湿った森の匂いと、乾いた土の匂いが混じっている。
やがて馬車は、石造りの門をくぐった。
門と呼ぶには少し古く、ところどころ欠けている。それでも、そこから先がダンヴァル領なのだとわかった。
ガルムの町は、静かだった。
人がいないわけではない。通りには店もあり、子どもも走っている。
ただ、王都のような華やぎはない。声が低く、足音が重い。
店先に並ぶ野菜は小ぶりで、薬草の束だけが妙に多かった。乾いた香りが風に乗ってくる。
領主館は、町外れの小高い場所にあった。大きいが古く、壁の石は黒ずみ、蔦が這い、二階の窓が一枚割れている。
割れたままなのは、直す人手がないのか、直す余裕がないのか、あるいは誰も気にしていないのか。どれもあまり良い答えではない。
馬車が止まると、出迎えに立っていたのは一人だけだった。
白髪の混じった男性で、背筋がまっすぐ伸びている。年配だが、動きに無駄がない。元は騎士かもしれない、と私は思った。
こういう観察癖は、相手に失礼にならない程度に留める必要がある。たまに顔に出るらしいので注意したい。
「レティツィア・ハーヴェル様でいらっしゃいますね」
「はい」
「ダンヴァル家の執事、ジルド・ガットと申します。長旅、お疲れ様でございました」
「迎えに来てくださってありがとうございます」
ジルドは一瞬だけ目を細めた。驚いたようにも、確かめるようにも見えた。
領主本人はいないのだろうか。
そう思ったが、口には出さなかった。花嫁を迎える日に領主が不在というのは、貴族の礼儀としてはかなり悪い。
けれど、死神伯爵と呼ばれる人に普通の礼儀を期待する方が無理なのかもしれない。あるいは、本当に忙しいのか。判断材料はまだ足りない。
案内された部屋は広いが、暖かくはなかった。家具は古く、床板はところどころ軋む。
荷物を置くと、侍女が遠慮がちに頭を下げて出ていった。残された私は、窓辺へ歩いた。
窓の向こうには、荒れた庭と、その先に広がる土地が見えた。畑らしき場所はあるが、色が薄い。
遠くの水路は、流れているのか止まっているのかわからない。空だけがやけに大きく、王都で見ていた空よりも近く感じた。
噂は暗く、道は悪く、屋敷は古く、窓は割れている。それでも私は、悪くないと思った。
少なくとも、ここには観察するものが山ほどある。そう考えた時点で、私の感性は令嬢より薬師に寄っている。今さらなので、深く気にしない。
私は鞄を開き、ノートを机に置いた。まずは水、次に食事、病人の数、領主の行動、噂と事実の照合。やることは多い。
その時だった。
窓の外で、白いものが落ちた。
布でも紙でもなく、雪にしては季節が違う。
私は反射的に窓へ身を乗り出した。
荒れた庭の草の上に、白い獣が倒れていた。
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