第1話 婚約破棄状と、より相応しい人
婚約破棄状は、朝食の前に届いた。
差出人はライホールド・クレイツ様。クレイツ家の嫡男で、三年間私の婚約者だった人である。
封蝋はきちんと押されていて、紙も上等だった。
こういうところだけ丁寧なのは、彼の美点と言っていいのか欠点と言っていいのか、薬の効能書きより判断に迷う。
私は封を切り、中身を読んだ。
要約すると、こうだ。
レティツィア・ハーヴェルは魔力がない。
自分にはより相応しい相手が見つかった。よって婚約は白紙に戻したい。
白紙。
なるほど。三年間、貴族法の分厚い本を読まされ、茶会では笑顔の角度まで注意され、彼の母君からは「薬草の匂いがしますわね」と言われるたびに「はい、実用的ですので」と返してきた日々は、紙一枚で白くなるらしい。便利な世界である。
窓の外から、庭師が剪定ばさみを鳴らす音が聞こえた。
ちょきん、ちょきん。枝が落ちる音は、妙に歯切れがよかった。
私は手紙を折りたたみ、紅茶を一口飲んだ。
冷めていた。
紅茶が、という話だ。そう思うことにした。胸の奥まで冷えているのだと認めたら、指先が震えそうだったから。
「レティツィア」
父の声がした。
顔を上げると、食堂の入り口に父と継母が立っていた。
二人とも、朝食前にしては妙によそ行きの顔をしている。来客でもないのにその顔をしている時点で、嫌な話が来る確率は九割を超える。
「読んだか」
「はい」
私が答えると、父は一度だけ咳払いをした。
「まあ、仕方がない。お前に魔力がない以上、いつかはこうなると思っていた」
そうですね、と私は思った。口には出さなかった。出したところで、食卓の塩が少ししょっぱくなるくらいの効果しかない。
この国では、魔力は家柄と同じくらい大事にされる。
私は侯爵家の次女として生まれたが、魔力はまったくなかった。
測定石に手を置いた時の沈黙は、今でも覚えている。
あの石は最後まで透明なままで、周囲の大人たちはまるで私が石に失礼なことをしたかのような顔をしていた。
けれど、魔力がないからといって、私が空っぽになるわけではない。
私には前世の記憶があった。
魔法がない世界。高層オフィスの建ち並ぶ日本で薬剤師として働き、患者さんの顔色を見て、薬歴を確認し、飲み合わせを考え、怪しい処方には首をひねってきた記憶だ。
こちらの世界でそれを話しても、たいていは「不思議な子」で終わる。便利な言葉である。理解できないものを棚に上げる時、人はだいたい不思議と呼ぶみたい。
「実は」と父は続けた。「話がある」
でしょうね。婚約破棄状を読み終えた瞬間に、父と継母が食堂へ来る。
偶然なら、王都の薬草市で良心的な値段の乾燥マンドラゴラを見つけるくらい珍しい。
「辺境のダンヴァル伯爵から、縁談が来ている」
「本日付けで」と継母が補足した。
私は父を見た。父は視線を逸らした。わかりやすい人だ。嘘をつくとき、右斜め下を見る。
幼い頃から変わっていない。
観察記録としては安定しているが、父としては少し残念である。
ダンヴァル伯爵領。
王都から馬車で五日。山と荒野に囲まれ、冬が長く、作物は育ちにくい。
近隣では「死に体の土地」と呼ばれている。領主のカルロス・ダンヴァル伯爵は「死神領主」の異名を持ち、前妻は嫁いで半年で亡くなったらしい。
つまり、誰も行きたがらない場所への、誰も望まない縁談である。
厄介払いという言葉を、父は使わなかった。そこだけは貴族らしい品がある。包装紙が上等でも、中身が苦い薬であることに変わりはないが。
「相手方は、魔力の有無を問わないと言っている」
「そうですか」
「お前にとっても、悪い話ではない。クレイツ家との婚約がなくなった以上、この家にいても肩身が狭いだろう」
継母が目元に白いハンカチを当てた。涙は出ていなかった。乾燥注意報を出したいくらいだった。
「レティツィア、向こうでは大人しくしているのですよ。辺境とはいえ伯爵家ですから、失礼のないように」
私は少し考えた。
泣くべきか。怒るべきか。
それとも「私には前世の知識がありますので、死に体の土地なら治しがいがありますね」と言うべきか。
最後の案は、場の空気を完全に冷却しそうなのでやめた。紅茶だけで十分である。
「いつ出発ですか」
父が目を見開いた。
「……三日後だ」
「わかりました」
「本当に、よいのか」
今さらそれを聞くのか、と少しだけ思った。
けれど父の顔には、罪悪感らしきものがうっすら浮かんでいる。う〜っすら。
「婚約破棄状は受け取りました。縁談も決まっているのでしょう。でしたら、準備します」
私は席を立った。椅子の脚が床を擦る音がした。食堂の空気が、少しだけ動いた。
部屋に戻る途中、廊下の窓から庭が見えた。切られた枝が地面に落ちている。剪定された木は、痛そうには見えない。ただ、少し身軽になったようにも見えた。
そう考える私は、たぶん性格が悪い。けれど、今日くらいは許されてもいいと思う。
自室に入ると、私は鞄を開いた。
持っていくものは多くない。薬草の種。小さな調合器具。前世の知識をこちらの文字で書き直したノート。
侯爵令嬢として読まされた貴族法の書き写し。あれは苦痛だったが、何が役に立つかわからない。苦い薬ほど効くこともある。
それから、古い白衣の代わりに使っている作業用の上着。王都の令嬢らしくはないが、薬草を煎じる時に袖が邪魔にならなくていい。
実用性は美徳だ。少なくとも、私の中では。
机の上に、婚約破棄状を置いた。
より相応しい相手。
その言葉だけが、やけに鮮明に残っている。
魔力がないから不要だと言われるのには慣れていた。
でも、誰かと比べられて落とされたのは、思ったより胸に刺さって重苦しく感じた。
刺さったのなら、抜けばいい。抜いたあとは洗って、必要なら薬を塗る。
心にも同じ処置ができれば簡単なのに、人間は外傷より面倒にできているなと思った。
三日後、私は馬車に乗った。
父は玄関先で「達者で」と言った。継母は「向こうで大人しく」ともう一度言った。私は「はい」と答えた。
大人しくするつもりはないけれど。
馬車が動き出す。車輪が石畳を鳴らし、侯爵家の門が遠ざかっていく。
私は膝の上の鞄に手を置いた。中には薬草の種と、調合器具と、ノートがある。魔力はない。婚約者もいなくなった。家にも居場所はない。
けれど、手は動くし、目は見える。
記録の仕方も、前世で学んだ。
死に体の土地なら、治しがいがあるかもしれない。
そう思った瞬間、馬車の窓から入る風が少しだけ冷たくなくなった。心の底がなんだかワクワクし始めていた。
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