第38話 つくりたい薬がある
庭で小さな式を挙げてから、いくつもの季節が過ぎた。
領主館の窓から見える景色は、もう私が初めて来た頃とは似ても似つかない。水路には澄んだ水が流れ、畑の緑は丘の向こうまで続いている。市場の日には荷馬車が列を作り、薬草を買いに王都から来る商人まで増えた。
診療所も少し広くなった。
「レティさん、この乾燥葉は二番棚でいいですか」
「アルベリスは焙煎済みなら二番棚です。検証用の生のものと間違えないよう、札も確認してください」
「もう間違えませんよ」
そう言って振り返ったコリンは、私より少し背が高くなっていた。
十歳だった少年も、今では医療師見習いとして診療所を手伝っている。患者への声かけも薬草の扱いもずいぶん板についた。ただし、昔の癖で勢いよく走ろうとして私に止められるところだけは変わらない。
「診療所では走らない」
「まだ走ってません」
「走ろうとしました」
「そこまでわかるんですか」
「長い付き合いですから」
コリンが不満そうな顔をしたところで、玄関の鈴が鳴った。
届いた木箱を見た瞬間、私は立ち上がる。
王都から待っていた荷物だった。
蓋を開けると、紙と新しい革の匂いがした。中には同じ装丁の本が何冊も並んでいる。
一冊を両手で持ち上げる。
表紙に刻まれているのは、イリス・ダンヴァルの名前だった。
彼女の手記のうち、薬草茶の配合や淹れ方が書かれた部分を整理し、読みやすい形にまとめたものだ。途中までしか書かれていなかったものは無理に完成させず、そのまま注記をつけた。加熱の必要な薬草については、今わかっている安全な扱いも添えてある。
彼女が書いたものを、私のものにしたくなかった。
だから、残っている言葉はできるだけそのまま残した。
「できたんですね」
コリンが本を覗き込む。
「はい。やっと」
手記を初めて開いた日のことを思い出した。
最後の頁は乱れた文字で終わっていた。
まとまっていない、と彼女は書いた。
でも、まとまらなかったから消えてしまうわけではない。残ったものを拾って、誰かが読める形に整えれば、先へ渡せる。
私は一冊を抱え、領主館へ向かった。
執務室にいたカルロス様は、表紙の名前を見た途端、手を止めた。
「届いたのか」
「はい」
本を渡す。
カルロス様は立ったまま頁をめくった。何度か指が止まり、そのたびに文字を長く見つめている。
私は何も言わず待った。
やがて彼は本を閉じた。
「ありがとう」
短い言葉だった。
誰に向けたものか、私は尋ねなかった。
イリスさんへ言ったのかもしれない。最後まで記録を残したことへの言葉かもしれない。
でも、カルロス様が本を私へ返さず、大切そうに胸元へ寄せたのを見ていると、その中には少しだけ私への意味もあるように思えた。
「どういたしまして」
それだけ答えた。
窓の外では、収穫を終えた荷車が市場へ向かっている。
彼女が残した薬草茶も、これから誰かの手へ渡っていく。
まとまらなかったものは、ようやく一冊の本になった。
そしてダンヴァル領には、それを読む人を迎えられるだけの余裕が生まれていた。
さらに年月が過ぎても、私は相変わらず診療所にいた。
変わったのは、薬棚の数と患者の数、それから私の仕事を途中で止める人の言い方だった。
「今日はもう終わりにしろ」
夕方、調合台に向かっていると、背後から声が飛んできた。
私は匙を置き、振り返る。
「あと一種類だけです」
「その一種類が終わったら、次が出る」
「よくご存じで」
「何年見ていると思っている」
カルロス様は私の机の上を見た。
薬草の包みがいくつか開いていて、ノートには試した配合の記録が並んでいる。患者の処方ではなく、新しい薬を作るための試験だった。
以前なら、ここで「倒れるな」と言われていた。
ふと気づいて、私は手を止めた。
「カルロス様」
「何だ」
「最近、『倒れるな』と言わなくなりましたね」
眉が少し動く。
「同じことだ」
「少し違います」
「……どう違う」
私は椅子から立ち、薬草の包みを閉じた。
「前は命令でした」
「今も命令だ」
「いいえ。今は心配しています」
カルロス様が黙った。
灰色の目が私を見たまま、返す言葉を探しているように見える。
昔なら、心配していても本人がそれを認める前に「倒れるな」の一言で終わった。
今は、今日の仕事を終わらせようとする。食事の時間を気にして、翌日に回せるものを勝手に分ける。たまに私のノートへ栞まで挟む。
ずいぶん具体的な心配になったものだ。
「違いますか?」
「……同じだ」
「では、そういうことにしておきます」
追及すると、また無口になる。
長く一緒にいてわかったことの一つである。カルロス様は答えに困ると黙る。本人はたぶん、黙れば逃げ切れると思っている。
逃げ切れてはいない。
「片づけます」
「ああ」
薬草を棚へ戻し、ノートを閉じる。
カルロス様は先に帰るでもなく、私が最後の瓶をしまうまで入口で待っていた。
「夕食は?」
「食べます」
「忘れるな」
「今は忘れていません」
「今は、だろう」
そこまで信用がないのは少し不本意だったが、実績があるので反論しづらい。
外へ出ると、夕暮れの風が畑から薬草の香りを運んできた。
市場の建物は以前より増え、遠くの水路沿いには新しい家も並んでいる。診療所へ通う道ですれ違う顔も増えた。
領地は、もう立て直す途中の場所ではなかった。
ここで暮らす人たちが次に何を作るかを考えられる場所になっていた。
「言い方が変わったのは、悪いことではありませんよ」
歩きながら言うと、カルロス様が私を見る。
「何の話だ」
「心配の話です」
「まだ言うのか」
「嬉しいので」
足音が一瞬だけ止まった。
私は振り返らずに歩く。
少しして、また隣に足音が並んだ。
「……そうか」
聞こえた声が、昔より柔らかかった。
数日後。
夜が深くなっても、診療所の窓だけは明るいままだった。
領主館から見えるその灯りは、日付が変わろうとしても消えなかった。




