第37話 小さな結婚式
談話室を出ると、廊下の壁際にジルドさんとエドが立っていた。
二人とも、こちらを見た瞬間に妙なほど姿勢を正した。
「……聞いていました?」
「何のことでございましょう」
ジルドさんは完璧な執事の顔で答えた。
その隣で、エドが視線を逸らす。
「壁に何かが当たる音がしましたけれど」
「私の肩です」
「なぜ壁に肩を?」
「少々、力が抜けまして」
ますます怪しい。
私が二人を見比べていると、背後から出てきたカルロス様が低く言った。
「放っておけ」
「閣下」
ジルドさんが呼び止める。
カルロス様が振り返ると、老執事は目尻を下げた。
「長かったですな」
エドも深く頷く。
「本当に」
「何の話だ」
「何でもございません」
「なら言うな」
カルロス様は歩き出した。
耳が少し赤い。
私はようやく、二人が何に安堵しているのかわかった。たぶん、わかってはいけないところまで聞かれている。
「聞かなかったことにしてください」
「もちろんでございます」
「記憶からも消していただけると助かります」
「それは難しいかと」
即答された。
そこへ薬草籠を抱えたコリンが角から現れた。
「何があったの?」
「何でもありません」
私とジルドさんとエドの声が重なった。
「絶対なんかあったじゃん」
十歳の観察力を甘く見てはいけないらしい。
翌日、私は畑の様子を見るため領地を歩いた。
水路のそばでは洗濯をする人たちの声が響き、以前は痩せた土が広がっていた畑には麦の穂が揺れている。市場へ向かう荷車には薬草の束が積まれ、診療所の前ではコリンが患者の順番を整理していた。
ふと、最初にここを歩いた日のことを思い出した。
壊れた水路。実らない畑。顔色の悪い人たち。
同じ場所なのに、今は聞こえる音から違う。
「レティさん!」
子どもたちの声に振り向くと、クオが三人ほどを引き連れて走ってきた。
正確には、子どもたちがクオを追っている。
「待てー!」
クオは待つ気がないらしく、白い尾を翻して私の横を駆け抜けた。
土地神の使いとして荘厳に光っていた姿を知っているだけに、泥だらけで逃げ回る今との落差が大きい。
でも、こちらの方が私は好きだった。
畑の端でカルロス様が農夫と話していた。
私に気づくと、こちらへ歩いてくる。
「何を見ていた」
「景色です」
「景色?」
「変わったなと思って」
カルロス様も周囲を見た。
笑い声がして、荷車が通って、クオが子どもに捕まっている。
「……ああ。そうだ。お前が来てから随分変わった」
短い返事だった。
でも、その横顔は穏やかだった。
この景色が変わった。
誰か一人が奇跡を起こしたからではない。水を運んだ人がいて、土を耕した人がいて、記録を残した人がいた。何度失敗しても、次を試した。
その積み重ねの中に、私もいる。
そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
夕方、領主館へ戻ると、ジルドさんが待っていた。
「奥様。折り入ってお願いがございます」
「何でしょう」
「ささやかな式を挙げさせていただけませんか」
「式?」
思わずカルロス様を見る。
彼も聞いていなかったらしく、眉を寄せた。
ジルドさんは静かに続ける。
「奥様をお迎えした折、この領地には祝い事をする余裕がございませんでした。ですが今なら、皆がお二人を祝えます」
エドが後ろで頷いた。
「大げさなものでなくてもお二人のいいように」
「待て。なぜ話が決まっている」
「まだ決めておりません。ご承諾を待っております」
どう見ても準備を始める気の顔だった。
私はカルロス様を見る。
灰色の目と合う。
昨日交わしたばかりの言葉を思い出して、また少し頬が熱くなる。
「私は……いいと思います」
カルロス様はしばらく黙ってから、諦めたように息を吐いた。
「いまさらだ。恥ずかしい」
ジルドさんの顔が明るくなった。
「承知いたしました」
その返事だけは、今日一番速かった。
小さく、とカルロス様は確かに言った。
ところが当日の庭を見た私は、その定義についてジルドさんと話し合う必要を感じた。
「領民の方、ほとんど来ていませんか?」
「皆、お祝いしたいと申しましたので」
「小さい式とは」
「規模ではなく、格式のことでございます」
便利な解釈だった。
庭には長椅子が並び、畑や市場、診療所で見知った顔がぎっしり集まっている。豪華な飾りはない。花も、この土地で咲いたものばかりだ。
だからこそ、きれいだった。
「奥様!」
「レティさん!」
あちこちから声が飛んでくる。
最初にこの土地へ来た頃、「若い奥様が来てくださった」と諦めたように笑っていた人も、今日は心から笑っていた。
カルロス様が隣へ立つ。
黒い礼装姿で、普段よりさらに近寄りがたい雰囲気なのに、領民たちはもう怖がらない。
その足元へクオが座った。
「お前まで参加するのか」
クオは返事の代わりに大きく欠伸をした。
「カルロス様」
コリンが前へ出てくる。
「俺、大人になってもここに残るから」
突然の宣言に、カルロス様が目を瞬いた。
「そうか」
「医療師になる。レティさんみたいに薬も覚える。だから診療所、なくさないでよ」
「なくさない」
その答えに、コリンが笑った。
私まで嬉しくなる。
視界の端で、ジルドさんが顔を背けた。
「ジルドさん?」
「風が目に入りまして」
「今日はほとんど吹いていませんよ」
「では、花粉でしょう」
薬師の前でその言い訳を選ぶとは、かなり動揺している。
エドがカルロス様へ声をかけた。
「閣下、もう少し笑ってください」
「笑っている」
「そうですか?」
私が横から顔を覗く。
カルロス様が嫌そうにこちらを見た。
けれど、確かに口元が少し上がっていた。
「笑っていますね」
「言っただろう」
その瞬間、周囲から小さな笑いが起きた。
以前なら、それだけで皆が黙ったかもしれない。
今は誰も怯えない。
それが何より嬉しかった。
簡素な誓いの言葉が終わり、領民たちから「奥様」と呼ぶ声が重なった。
私は一人ずつ顔を見た。
ここへ来た時、私は行き先を選べなかった。
婚約を破棄され、父に決められた縁談を受け、五日間馬車に揺られてやって来ただけだ。
でも、今ここにいることは違う。
私は自分で残りたいと思っている。
ここが私の場所だ。
「レティ」
呼ばれて、隣を見る。
カルロス様が一つ咳払いをした。
領民が見守る中なのに、少し言いにくそうだった。
「もし、君がよければ……だが」
「はい」
「形式だけの妻でいいと言ったことを、撤回したい」
庭がしんと静まった。
この人は、こういうことを皆の前で言える人だっただろうか。
たぶん以前なら言わなかった。
私も以前なら、必要のない関係で十分だと思っていた。
でも今は違う。
私は頷いた。
「はい。私も、そうしたいと思っていました」
カルロス様の目が少し見開かれる。
「……そうか」
「はい」
また、その言葉だった。
何度も聞いてきたのに、聞くたびに意味が変わる。
次の瞬間、大きな拍手が庭を満たした。
ジルドさんは今度こそ隠しきれずに目元を拭い、エドは深く息を吐いている。コリンはクオを抱き上げようとして逃げられていた。
私は笑った。
最初から望んで来た場所ではなかった。
それでも、人は後から自分の場所を選べるらしい。
薬草の匂いがする風が庭を抜ける。
隣には、寒がりで、無口で、不器用な夫がいる。
カルロス様の手がそっと私の手に触れたので、今度は私から指を絡めた。
彼は驚いたように私を見たあと、離さなかった。
そして季節は巡り、数年が過ぎた。




